隠匿的読書生活

囚われがちの脳を読書で解放

今読むべきロシアと旧ソ連領国家に関する2冊の本

ウクライナ情勢について、多くの日本人には馴染みがなかったため、突然戦争が始まったかのような印象を受けた人も多いだろう。私もその一人だ。無知を反省しつつ、経緯を知るべく以下の2冊の本を読んだ。大変おすすめできる本だと思う。

これらの本を選んだのは、それぞれ2008年、2014年(クリミア併合直後)に発刊されたものだからだ。今後、ロシア、ウクライナに関連する本は、熱を帯びバイアスがかかっているものも多いだろう。だからあまり世間に注目されていなかった頃に書かれたものを選んだ。我ながら良い選択をしたと思う。

著者はコーカサス地方の研究を専門としてきたという。コーカサス地方は北は主にロシア領、南はジョージアアゼルバイジャンアルメニアの三つの国からなる。この地域にウクライナは含まれていないが、近くの西側に位置し南コーカサスの国々と同様の国境問題を抱えている。

本書2冊の中でウクライナについても触れられているが、割かれているページ数は著者の専門分野であるコーカサスの方が多い。しかしどちらも旧ソ連領から独立した国家で、同じくロシアとの間に国境問題があり、火種を理解できる内容になっている。

「強権と不安の超大国・ロシア」の方は、タイトル通りロシアに重きを置いている。1章では、経済成長したロシア、旧ソ連から独立した国の人々皆が、ソ連時代は暗黒時代だったと思っているわけではない事について書かれている。

旧ソ連時代の方が、年金は潤沢で、等しく良い教育が受けられ、余暇も与えられ、物価も安定していた。ソ連崩壊後は、教育格差が広がり、物価も上がり、雇用も不安定になった。それゆえソ連時代の方が良かったと考える人が一定数いるという。

今となっては、社会主義・計画経済による市場効率を無視した生産性の低さが破綻の一因と言われているし、継続しない安定だったのであろう。ただ、旧ソ連にノスタルジックな感情を持つ人々が実際にいて、親ロシア派のような存在は虚構ではないことはわかる。

2章ではロシアと旧ソ連領だった国々との国境付近に存在する未承認国家と、その成り立ちについて書かれている。旧ソ連への想いがある人々がいることを理解すると、彼らの存在が未承認国家誕生の一因となっているとわかる。その上でロシアの旧ソ連領への影響力確保という動機も重なっているということのようだ

3章ではロシアのKGB的体質について書かれている。現在も政府要人ポストに元KGB職員が就いていることから、KGBの体質を理解することはロシアの体質を理解することにもつながるだろう。特にソ連時代に現地で仕事をした日本人の統制社会の体験は興味深く読めた。

「強権と不安の超大国・ロシア」の2章の未承認国家に関する話は、もう一冊の本「未承認国家と覇権なき世界」で深く掘り下げている。クリミア併合直後に書かれているので、この件およびウクライナとロシアが抱えている問題についてもページを割いてあり、今回の火種の理解になる。

著者曰く、近年のロシアの国境問題における強硬的な行動は、コソヴォの独立も大きな要因としている。旧ソ連領のセルビアからのコソヴォの独立にアメリカが肩入れしたことがロシアの不信感を高めたと述べている。

よく報道ではNATOの拡大が原因と言われ、コソヴォのことに触れられることはあまりないが、本書ではページを割いて説明している。こういった話を読むと、今に至るまで長年の複数要因があるのだとわかるし、ユーラシア主義への回帰、暴走というのは単純すぎる見方であると思う。

ちなみに著者はウクライナ全土の戦争勃発を予想できなかったことで、「研究人生で構築してきたセオリーは水泡と化した」と述べている。

www.sfc.keio.ac.jp

確かに戦争を見誤ったことは事実かもしれないが、著書に読む価値がなくなったということは全くない。私が今までの経緯を理解する助けになったし、それは他の人も同様であろう。改めて今、読むことをおすすめしたい。

 

 

地球が丸いという知識は、多くの人にとって宗教上の信仰と大差がない

私は自分の目で見たことがないのに地球は丸いと思っている。学校でそう習ったからだ。自分で天体観察したり数学的な証明で理解したわけではないし、世界一周旅行をして実体験で理解したわけでもない。ただ学校の授業内容を正しいと信じているに過ぎない。多くの人もそうだろう。

このことを自覚して以来、人々が地球は丸いと信じていることは、宗教の教えを信じていることと大差のないことではないかと思うようになった。日本の学校教育に懐疑的な人ですら、地球が丸いということに関しては嘘は教えていないと信じている。その次元で学校教育を疑う者はほとんどいないだろう。

『人は科学が苦手〜アメリカ「科学不信」の現場から〜』はそのような私の考えを後押しする内容で興味深く読むことができた。実体験が伴わない事に対する知識、およびそれを正しいと信じる根拠は、その知識を与えた者や媒体への信頼によって担保されている、ということがよくわかる内容になっている。

アメリカにはフラットアースの会という地球は平らであると本気で考えるコミュニティがある、ということを私は本書で知ったのだが、読み進めると彼らのことを笑えないとわかる。むしろ直感的には、地球は平らであると考える方が自然であるし、直感に反して実体験もなく丸いと考えるのは、あくまでそのように習ったからである。

本書では進化論、温暖化を信じない人々の思想背景についても、インタビューを通じて述べている。その内容から子供の頃の親や教師から受けた教育、大人になってからの交友関係、誰に対して信用を置いているかが影響しているとわかる。つまり多くの人は科学的な理解で正しいかどうかを判断しているわけでないのだ。

本書の中で印象深いエピソードは、温暖化に懐疑的だった共和党議員の心変わりだ。息子の環境に対して良いことをしてほしいという言葉、議員活動での南極調査、オーストリアの友人とシュノーケリングで見た白化した珊瑚、その原因を教えられたこと、それらが彼の考えを変えた。

彼が考えを変えた要因は、信頼できる人の言葉と実体験なのだ。逆にいうと信頼のない人間が科学的根拠を提示したところで、その情報やデータを信用しないし考えを変えないものなのだ。

本書はフェイクやミスリードが蔓延する情報洪水化時代において、人間関係の質と幅、自分で体験した上で考察することの大切さを改めて教えてくれる。また自分が正しいと信じていることの根拠についてセルフチェックするきっかけを与えてくれるだろう。

「低度」外国人材を読んで。国を変えその場限りの労働力として使い捨て続けた果てに待つこと

移民の窓口を広げると移民が増え続け、日本が日本じゃなくなるという懸念をネットで見かけるようになって久しい。しかし、より現実的な懸念は、新興国の経済成長して手稼ぎ労働者が減少し、その影響で少子化した日本の労働人口が著しく不足することではないだろうか?

自国の賃金が上がれば、日本に移住したり出稼ぎに来る理由はなくなるだろう。今やコンビニで中国人のスタッフを全然見なくなった。私の地域では中東系の人をよく見かけるようになった。コンビニの外国人スタッフの入れ替わりは、多くの人が肌身で感じることではないだろうか。

本書は私が危惧すべきことを裏付ける内容だった。内閣府の調査によるとこの10年ほどで、中国人の犯罪件数は5分の1程に減ったらしい。本書の著者の面識のある中国人の中にも、中国でカタギの仕事をした方が割にあうと、自国に戻ってまともなビジネスに乗り換える者もいるという。

副題にある「移民焼畑国家」という言葉は言い得て妙である。デフレ&低賃金と言われる日本であれ、自国の賃金より割の良い外国人は出稼ぎに来る。そして自国の経済成長が追いついたら帰っていく。先に経済成長を果たした国の者から、一抜けする形で日本に見切りをつけていく。中国人はその先駆けとなったのだ。

賃金だけを求めて来る外国人が従事する仕事は、日本人がやりたがらなくなって久しく、存在すら認識され無くなったような仕事だ。やりがいを感じられない単純労働、体力を使い、健康を害しかねない、粗暴な人間が多く罵声が飛ぶような仕事である。本書でもそのような労働環境にスポットを当てている。

本書で取材対象となっているのは主に中国人とベトナム人である。都市部で豊かに育った若い中国人、経済成長が出遅れている地方出身の中国人、ベトナム人、きちんとした教育を受けベトナムで働くベトナム人を対比するような形で書かれている。

対象となる国は絞られているが、新興国が経済成長を果たした後、外国人労働者に頼ってきた分野で、近い将来人手不足になる未来を想像できるだろう。本書の後書きあるように、ベトナムの次はカンボジアミャンマーと低賃金労働者の国を移し替えて、いつかは誰も来なくなる・・・まさに焼畑労働市場の食い潰しである。

低度というタイトルから差別的・排外的な印象を受けるかもしれないが、そういう内容ではない。「低度」外国人材とは「高度」外国人材をもじった著者の造語である。高度な外国人材を獲得したいという政府の思惑に反して、語学力も専門知識もない人材が劣悪な単純労働環境に割り当てられている、その現実を描くための言葉である。

冒頭の飲酒事故を起こしたベトナム人の話を読むと、偏見を抱かせることを意図して書いているように感じ、読むのを敬遠する人もいるかもしれない。しかし、著者が自戒の念を込め後書きに書いているように、著者は元々中国人を対象とした取材が多く、あまりベトナム人には馴染みがなかったらしい。

また当初はバイアスがあったことも認めている。ベトナム人相手に取材を続けるにつれ、距離が縮まったようで、後半は無実であろう罪で拘束されているベトナム人に同情を寄せてもいる。逆に中国人に対して淡々と書いているように見えるのは、親しみの感情があるゆえにフェアに書くことに努めたからのようである。

タイトルや冒頭で排外的な内容と判断するのは勿体無いので、後書きの著者の話をまず読んだ方がいいかもしれない。そもそもベトナム人が寮から逃げ出して、不法滞在者となるのは労働環境が劣悪だからなのだ。また彼らに実情を十分伝えないまま日本に送り込んでいる組織にも問題があることがうかがえる。

対して豊かになった中国人の反応も印象的である。日本の文化にあこがれてワーキングホリデー気分で来た若い女性中国人などにもインタビューしている。彼らは家族を養うために理不尽な労働環境でも黙って耐えたかつての弱者ではない。

人権意識も持ち合わせており、それを盾に理不尽な仕打ちにネットを駆使して異国の地で法的に戦おうとする様子も描かれている。それゆえ、日本人側からも彼らを雇うことを敬遠していくようになっていくだろう。著者が言うように彼らはもはや都合の良い使い捨ての奴隷にはなり得ないのだ。

日本では中国の人権問題に触れ、強制労働のような環境で作られたものは不買すべきだ、トレーサビリティが大事だといった話もあるが、本書を読むと日本も他国のことを言える立場ではなく、むしろブーメランで返ってきそうな話である。実際、奴隷的な労働環境で外国人労働者によって生産され、メイドインジャパンとして市場に出回っている商品もあるだろう。

近い将来、低度外国人人材に頼る日本の劣悪な労働環境について暴露され、世界に広く知られるようになり、前倒しでこれら分野の労働力不足に陥るのかも知れない。

矛盾社会序説から得られる教訓。孤立したキモいおじさんにならないために

発刊当時に読んだ矛盾社会序説。改めて読み直して思うのは、自らが社会から透明化した弱者にならないための示唆に富んでいるということだ。中高年男性はこれを読んで自分を顧みるのもよいと思う。

矛盾社会序説の内容は、おおむね以下のような内容である。

  • 弱者にはかわいそうと思ってもらえる弱者とそうでない弱者がいる
  • かわいそうな弱者は優先して救いの手が差し伸べられる
  • 対してかわいそうでない弱者は透明な存在となり、救済の対象として認識すらされなくなる
  • 付き合う相手を自由に選択できる社会は、望まない相手を人間関係から排除する自由があるという二面性を持っている
  • ほとんど誰からも選ばれずに透明化した弱者が社会に存在する
  • 社会的に透明となっている弱者にスポットを当てて論を展開
  • 今後、透明化している弱者の数は見過ごせなくなる時が来るであろうと警鐘を鳴らす

本書の目的は、多くの人が認識すらしていない弱者の存在認識を促し、自由な社会が払ってきた代償と未来に警鐘を鳴らすものである。ただこの問題に対して、個人が社会的に行動できることはほとんどないのではないか、というのが正直な感想である。

その代わりこのような現実を認識することは、自分の普段の振る舞いや人生設計について考えるきっかけにはなると思う。その意味で本書は読む価値が高い。今はまだ若く孤立した存在でなくとも、年老いた時に「かわいそうでない弱者」となり社会から透明化してしまうかもしれないのだから。

おじさん年齢になったら性的な言動は封印するべき

本書で数年前(2017年)に話題となった「ちょいワルジジになるには美術館へ行き、牛肉の部位知れ」という50、60代向けの雑誌に掲載された記事について言及している。この記事は若い女性をナンパ目的で美術館へ行くことを促すような記事で、ネット上で、特に女性から大変なバッシングを浴びた。

著者は、このような手法を実践している高齢男性がいたら嫌悪感を抱く女性に理解を示しつつも、この記事は想像上の手法の一例として書かれたものに過ぎないと指摘する。その想像上の産物に対して「こんなジジイは最悪、気持ち悪い」という意見がTwitter上で噴出したことに身の毛がよだつ思いをしたという。

そのようなツイートには「キモいジジイは嫌い・不愉快・消えてほしい」という「生理的嫌悪感」が根底にあることは、ほとんどの発言者に共通していたようだとも書いている。そうこの件は、少なくない女性にとって「キモいから消えてほしいジジイ」と認識している対象が日常的にいることの表れなのだ。

著者は、この話の次に「40代ひとり暮らしが日本を滅ぼす」という提言をした番組について言及している。彼らは自由恋愛市場の中で排除された存在であると。それは単に容姿の問題=キモいからだけではなく、経済力の無さによっても排除されているという。

自由恋愛社会を謳歌する一方で、独身者が社会を蝕むとする言説を憂えるのは、矛盾した態度であるといわざるをえないであろう、というのが著者の弁である。ごもっともな指摘だ。著者が説くように、自由に人間関係を選択できる社会は、自由に望まない相手との関係を排除できる社会でもあるのだ。

困窮孤立の生活を送っている40代男性が積極的救済対象とならず透明化してしまうのは、彼らがかわいそうでない弱者だからだ。その問題についてここで問うことは避けたい。そのような現実がある中で、一人の中高年男性としてどう振る舞うべきかに主眼を置きたいからだ。たとえ今は困窮孤立していなくともである。

先程の美術館で若い女性を狙う高齢男性は架空の存在だが、ごく最近、実在の高齢男性に対してキモいジジイ叩きに相当するバッシングがあった。2021年、コロナ禍のオリンピック開催という状況での名古屋市市長・河村たかし氏による金メダルかじり騒動である。

河村氏は同名古屋市出身の若い女性選手と会見した際、彼女の金メダルをかじって大変なバッシングを浴びた。彼女に対してセクハラと捉えかねられない質問もあり、Twitterでは生理的嫌悪を露わにするバッシングツイートが多く見られた。

正直なところ彼は少なからずの人に、時代感覚をアップデートできていない典型的な昭和オールドタイプとして認識されそうなキャラクターである。支持者もいるが、もともと生理的嫌悪感を持っていた人も相当数いたであろう。彼らにとってこの一件は、社会正義の名の下にバッシングできる格好の機会だったと思う。

メディアの記事上は「本人以外がメダルをかじることなどあり得ない」「コロナ禍の中でマスクを取ってかじることは衛生面からもありえない」といった論調であった。しかし本音を吐き出せるTwitterでは、若い女性の前でセクハラまがいなことを言い、ジジイが汚い口で金メダルをかじるなといった生理的嫌悪を含む罵声が多く見られた。

普段から自分がキモいジジイと認識されているかも知れないという想像力と緊張感のない態度でいると、こういう地雷を踏みかねないのである。そして周囲から距離を置かれる羽目になり、ゆくゆく社会からの透明化してしまうかも知れないのだ。

河村氏は社会的地位があり、打たれ強さも常人以上であろうから、バッシングを浴びた後も市長の座にいる。年明け正月の彼のツイートには支持者の応援も多く寄せられていた。彼はこのようなバッシング後も透明化した弱者となることはないが、大した地位のない庶民は身近な人々のバッシングすら致命的になりかねない。

性的な言動にブレーキのない人間は、他の事でもデリカシーのない発言をして、ひんしゅくを買っているものだ。本書では60歳以上で友達がいない男性は4人に1人という内閣府の調査を挙げている。その中にはあからさまなバッシングを浴びることはなくとも、それとなく距離を置かれてそうなった人もいるだろう。

本書や河村氏の一件から学ぶべきことは、自分が中高年となった時、キモいジジイとして排除されないよう心がけることだ。私も今や40代ひとり暮らしの男性の一人であるが、望んで独身でいるし幸い食べていける収入は維持できている。が、キモいジジイと認識されないよう公の場での性的言動は封印している。

私はよく一人で飲みに行くので、バイトの若い女性と顔見知りになることもある。容姿が良いと思う女性がいても、それを口にすることはない。第三者が「彼女かわいいよね」と振ってくることもあるが、「若い子はみんなかわいい」と言ってスルーし、容姿の良し悪しに関わらず、なるべく平等に接するように心掛けている。

そのような酒の場では、中高年男性が平気で彼女たちの容姿の評価を下す発言をしていたりする。直接遭遇したことはないが、それが原因で女性が泣いたという話を聞いたこともある。そのような振る舞いを続けている者こそが、後々透明化した存在として孤立の老後を送りかねないと思うのだ。

私はネット上で生計を立て住む場所も選ばなくてよい身だ。だから既存の人間関係で地雷を踏んでも、遠方へ引っ越して新たな人間関係を築くこともできる。ただ自分が60代、70代となった時、今と同じようにフットワーク軽く動けるか、今の収入を維持できているかはわからない。

だからこそ、今のうちから言動には気をつけているのだ。

後編へ続く(予定)

「認知バイアス 心に潜むふしぎな働き」の感想

Amazonで「認知バイアス」で検索すると関する本は何冊も見つかるが、本書は2020年に出版された最近のものである。

認知バイアスにまつわる本を読んだ人なら、読んだことがある内容が多いかも知れない。しかしこの本は、とても読みやすい文章でページ数もほどよい。思考が偏ってるかも?と思った時に、ふと読み返すのにちょうどいい。

情報化社会において認知バイアスがもたらす悪影響は周知の通りである。認知バイアスについては義務教育の中でしっかり教えた方がいい。この本は大学で講義している人が書いているので、教材としても適していると思う。

読んだことがある内容が多かったが、それでも初めて知る驚く内容もあった。特に印象的だったのが「言語がもたらすバイアス」の章。言語習得する、語彙が増えるということは、むしろ認知バイアスを退ける効果ばかりのように思いがちだが、どうもそうではないようだ。

まず言語習得が絵を下手にするいうもの。言語障害があるけど絵がうまい人というと、日本人なら山下清を思い浮かべる人が多いかもしれない。本書では海外のケースだが、重度の自閉症の6歳の子供が描いた躍動感のある馬の絵が紹介されている。

著者が講義の中で「実写的な馬」を大学生に描いてもらった絵も載っており、こちらのほうが6歳児が描いたものに見えてしまう(笑)。私も写真も見ずに描いたら似たような絵になりますが・・・言語能力が発達すると実写的な絵画能力は後ろに回るようなのだ。言語能力も高くて絵もうまい人もいるので退化するということではない。

見たままを記憶する写真的記憶という能力は、まだ言葉がおぼつかない幼児やチンパンジーに顕著に見られるらしい。本書でチンパンジーの写真的記憶の能力を示す動画が紹介されている。

youtu.be

ランダムに表示された1〜9の数字を、小さい方から順にタッチする実験で、チンパンジーは素早く押していく。ほとんどの人間より早いはずだ。写真的記憶がもたらす能力なのだろう。野生に生きる彼らにとって、見たままを記憶する能力は重要である。

本書では、人間は言語習得と共に写真的記憶が失われるわけではないとも付け加えている。ただ表に出にくくなるだけだと。言語能力が生きていく上で重要な環境では、言語能力が写真的記憶能力より優先して使われるようになるということだろう。

ちなみに私は短い数字の短期記憶が苦手である。パスワード認証の際に二要素認証で6桁の数字が求められることがある。これすら覚え間違うほど短期記憶がひどいのだ。けど画像として目に焼き付けることを意識すると間違いが少なくなったのだ。

たとえば「531672」とい数字を「ごーさんいちろくななに」と言語で覚えるのではなく、目に焼き付けるように画像として覚えることを意識する。こうしたほうが入力間違いが少ない。能力を「賢い←→おろか」という一次元的に測る考えもバイアスということなのだ。

言語によるバイアスでもう1つ印象的なのは、水が入った2つのコップを傾ける話である。2つのコップは高さは同じだが幅が異なる。2つのコップの水の水位は同じ高さまで入っている。この2つのコップは同じペースで傾けると、幅が広いコップの方が早く水がこぼれる。

これを水がこぼれるのはどちらが先か、もしくは同じかと質問すると、正解する人は少ないらしい。私も同じだと思った。しかし目隠ししてコップを傾け、水がこぼれる直前に止めてくださいという実験にすると、多くの人が幅の広いコップを先に止めるという。頭でわかっていなくても、体はわかっているということらしい。

いろいろな認知バイアスの話を挙げた上で、二重過程理論のシステム1(直感的で早い)、システム2(熟慮的で遅い)という区別は陳腐だとしている。言語によるバイアスにあるように、熟慮よりも直感の方が論理的に正しい解を導くこともある。本書では認知バイアスに従った方がうまくいく場合もあることを示唆している。

最後の章は「認知バイアスというバイアス」というタイトルを付けて以下のように説いている。

ある課題を用いてできないから人は愚かだとか、逆に別の課題を用いて成功したので賢い、などどいう結論を出すこと自体が大きな間違いであることがわかる。またそれがどちらのシステムなのかと問うことも生産的ではない。

とかく認知バイアスというと負の側面しかないように思いがちだし、私もそのように思っていた。でもそれすらもバイアスだったのだ・・・

いずれにせよ、現代の知能社会、技術社会を直感だけでは生きられないし、認知バイアスメタ認知することを意識したい。そのためにも、この手の本はたびたび読み返すべきだと思う。

1984年を読んで。個人の自由を守るものは何か

オーウェルの小説・1984年は監視社会の恐怖を描いた作品として有名である。テクノロジー監視社会化が懸念される昨今、この小説のようになってきた、予言本だ、という論調を目にすることがある。気になって私も読んでみたが、現代の監視社会を考える材料にはならないと感じた。

※私が読んだのは、この「一九八四年 新訳版」だが、以降漢字ではなく1984年と書く。

まず監視の仕組みが現代で危惧されているものと隔たりを感じる。テレスクリーンによって、24時間、盗撮、盗聴されているという程度の設定で、監視のテクノロジーについて深掘りする描写はない。昨今懸念されているのは、このような類の監視ではない。

ウェブサービスを提供する企業は、個人の行動を集積し、A Iで分析し、その人の趣向にあったコンテンツやフォローすべきユーザーを「おすすめ」する。その目的は言論統制ではなく、サービスの利用時間を長くして収益を上げることが目的である。

ユーザーは「おすすめ」により、趣向に偏った情報を受け取るようになり、似たような思想の者同士でフォロー関係になる。サービスは広告配信する際、その広告と親和性の高いユーザーに配信する。広告主はその仕組みを利用し、心理誘導しやすいユーザーを対象に偽情報を流すこともできる。

このように民間企業が個人の行動を監視し、お金に転換する過程で生じる分断、怒りや憎しみの増幅。こういったことが現代の監視社会化で危惧されていることだろう。中央政府による国民監視とは異なり、監視の主体(企業)が複数いるというのが特徴だ。

中国は中央政府による情報検閲が行われているし、プライバシー意識の高い欧米諸国よりデジタル監視が進んでいると言われる。犯罪など望ましくない行動をするとスコアが減点され、スコアが基準値を下回ると生活に制限がかかるようにもなっている。

中国市民の中には、そのような監視によって治安が向上したことを歓迎する人も多いという。この件は「幸福な監視国家・中国」に詳しい。

中国の監視社会を賛美する内容ではなく、中国在住の日本人が一歩引いた視点で書いている。1984年よりは、こちらの方がデジタル監視社会の実態を知る上で読む価値があるだろう。

政府が望ましいとする行動を人々に促すことは、犯罪が減るという良い面ばかりでなく、無意識に国民が国家権力に従うようになるという危惧もある。いずれにせよ、私たちが直面しているのは、テレスクリーンのような物理的監視があり、抑圧や疑問を感じて生きるという1984年の監視社会とは異なるものだ。

インターネットやAIを用いた高度で巧妙な現代の監視の仕組みからすると、1984年の監視システムは前時代的でお粗末なものに思えてしまう。この小説が刊行されたのは1949年だが、著者が未来のテクノロジーを想像できなかったというより、そもそも監視のシステムについて重きを置いて書いていないと思うのだ。

常時監視されているという設定は、主人公の監視を逃れた逸脱行動が、いつかバレて捕まることを想像させ、話に緊張感を与えるために設けられているだけのように見える。オーウェルが主として描きたかったことは別にあると思う。

それは全体主義の恐怖と、それがいかにして生まれ、維持されるかについてだろう。それを著実に示すのは、物語後半、党の幹部・オブライエンが主人公・ウィンストンを再教育のために拷問にかけるシーンにある。

オブライエンはどうして我々は権力を欲するのかとウィンストンに問う。彼は「あなた方は人間に自らを律するだけの能力を信じていないからだ」と答えるが、オブライエンは馬鹿なことを言うなとこう言うのだ。

ナチス・ドイツロシア共産党は方法論の上ではわれわれに極めて近かったが、自分たちの動機を認めるだけの勇気をついに持ち得なかった。

かれらは自らを偽ってこう述べ立てた➖いやあるいは本当に信じ込んでいたのかもしれない➖自分たちは止むをえず、そして暫定的に権力を握ったのであり、その少し先には人間が自由で平等に暮らせる楽園が待っているのだ、と。

われわれはそんなことはしない。権力を放棄するつもりで権力を握るものなど一人としていないことをわれわれは知っている。権力は手段ではない。目的なのだ。

迫害の目的は迫害、拷問の目的は拷問、権力の目的は権力、それ以外に何がある。

1984年を刊行した当初オーウェルは、この小説についてこのように語ったらしい。

わたしの最新の小説は、社会主義イギリス労働党(私はその支持者です)を攻撃することを意図したのでは決してありません。しかし共産主義ファシズムですでに部分的に実現した(…)倒錯を暴露することを意図したものです(…)。小説の舞台はイギリスに置かれていますが、これは英語を話す民族が生来的に他より優れているわけではないこと、全体主義はもし戦わなければどこにおいても勝利しうることを強調するためです。

1984年 (小説) - Wikipedia

この中で大事なことは「どこにおいても」という部分だろう。オーウェルは政治的な主義主張に関わらず、どこにでも全体主義は発生しうると言いたかったのだ。

ナチス・ドイツも旧・日本帝国も反共産主義の立場だったが、ファシズムと認識されている。旧・日本帝国時代、小林多喜二によって資本主義批判の蟹工船が発刊された。小林多喜二は後に共産党員となり、最期は密告によって捕まり警察の手で拷問死した。

社会主義共産主義に傾倒した国家では革命の名の下に虐殺が行われ、冷戦時代は民衆の監視、弾圧も行われた。社会変革を目的とした革命は、権力の維持にすり替わる。そもそも革命家たちは権力を欲しただけではないかという疑問も拭えない。

こういった現実に起きたことを風刺して描いた世界観、それが1984年のディストピアなのだ。この小説はテクノロジー監視社会の預言書ではなく、全体主義の寓話として読むべきだろう。

現代の監視社会は分断をもたらすもので、全体主義とは真逆の流れを作っている。監視抜きにしてもインターネットの情報洪水は、人々に多様な思想をもたらしている。現代において国家規模の全体主義は起きにくくなっていると思う。

よって1984年は現代監視社会を考える材料にはならないと思うが、それでも娯楽小説として面白いし、現代に通じる風刺もあると思う。物語後半、ディストピアの実態が暴かれるが、軍事力が拮抗する大国間の絶え間ない戦争、恒常的な破壊、それが富の増加を防ぎ、資本主義の芽を摘むという設定は面白い。

富が増加しないことで、人々は一昔前より貧しい生活をしており、その生活が向上する余地もない。また党員の仕事は、なんら市場価値を生み出さない情報の隠蔽、改竄、取り締まりのような党の権力を維持するためだけのものである。

かたや党から動物とみなされている労働階級=プロールは、ほとんど監視対象になっていない。彼らの間では市場経済がまだ存在している。主人公は、いつか彼らが党の体制に勝利するだろうと言う。このような党員とプロールの対比は何を示唆しているのだろうか。

とかく監視社会以上に批判の槍玉に上がるのが資本主義である。しかし資本主義のアンチテーゼだった共産主義社会主義でも集権化、政治エリートによる富の偏在、全体主義が起きた。むしろ自由市場経済を否定した社会の方が富の移動が起きにくい分、権力が固定されやすい面もあるだろう。

1984年ではそのような世界が描かれている。資本主義が敗北し、3つの強国によって世界は分断されているが、どの国も同じような監視体制が敷かれている。その体制は絶え間ない戦争によって維持されているのだ。

オーウェル自身は民主社会主義者を自称したようだ。民主社会主義者についてWikipediaにはこうある。

民主社会主義者は、資本主義は自由、平等、連帯という価値観と本質的に相容れないものであると主張している。

民主社会主義 - Wikipedia

オーウェルが資本主義にどの程度否定的だったのかわからないが、1984年は資本主義が敗北した後にディストピアが訪れたかのように描いている。プロールの描写からも少なくとも市場経済については否定的ではなかったように感じる。

自由市場経済が個人と国家権力の間に線引きをし、個人の自由を保護する側面もあると思うが、オーウェルもそこは同じように考えていたのかもしれない。1984年の読者もこの世界でならプロールに生まれた方がマシだと考えるのではないだろうか。意図的にそのように描かれているように思う。

1984年にあるような全体主義的監視社会は現代では現実味がないが、アルゴリズムで集められた似た者同士の島宇宙はサイバー空間に点在している。その島宇宙に限定した思想統一、改竄情報(フェイクニュース陰謀論)の流布はある。

島宇宙で影響力のある人間は、敵を設定し島宇宙の住民を煽る。島宇宙の住民はそれに歓喜し、敵に罵声を浴びせる。Twitterでお馴染みの光景だ。1984年で戦争の報道を見た民衆がビッグブラザー歓喜し、ゴールドスタインに罵声を浴びせる場面と重なる。

社会不満から目を逸らさせるガス抜きが、個人の主体的な思考を阻むのだ。現代の島宇宙の住民は、自由な思想を持てる時代にいながら、偏った思考に染まり、主体的な思考を失い、現実を誤認し、やがて時代から取り残されていくだろう。

そもそも島宇宙で影響力のある人間は、個人的利益や承認欲のために、世直しを訴え人々を導くようなふりをしているだけかもしれないのだ。権力の目的は権力という言葉が当てはまる。どんな時代であれ、個人の自由を守るためには自立的な人間であらねばならない。それこそ1984年が現代に与えてくれる教訓かもしれない。

1984年のスローガン「無知は力なり」は、哲学者フランシス・ベーコンの「知は力なり」の逆意的造語である。「隷属は自由なり」も隷属を逆意にすると「自立は自由なり」となる。知が自立の力となり個人の自由を保障する。これがオーウェルの真のメッセージではないだろうか。

1895年の若者が書いた時間旅行小説・タイムマシン

ウェルズの小説「タイムマシン」はタイムトラベル小説の元祖と言われている。ウェルズ29歳、1895年に書かれたものだ。

タイムトラベルについての考察本「タイムトラベル」によると、人類は長い間、タイムトラベルという空想と無縁に生きてきたようである。思いついた人はいたかもしれないが、タイムトラベルという概念を持ち出した話は、この小説以前には見当たらないらしい。

浦島太郎のように、自分以外の周囲だけ早く時間が過ぎるといった話は、過去にも世界に散見されるようである。しかし現代から未来へ行って、また現代に戻ってくる「時間旅行」という概念が登場する話は、ウェルズの「タイムマシン」以前にはないらしい。

「タイムトラベル」によると、人類は長い間、変化の少ない世界で生きてきた。自分、親、祖父母、そして子供も孫もひ孫も、ほとんど変わらない世界を生きていた。人類の終末を信じられることはあったが、占い師が100年後の世界を予言するようなことはなかったそうだ。変化が乏しい世界では、その必要もないからだという。

時間経過と共に世界が変化していくことが、誰の目にも明らかになった産業革命以降になって、タイムトラベルという概念が生み出されたようだ。本書のあとがきにもあるが、家庭用ビデオデッキが普及するまで、動画の巻き戻し、早送りも一般人に馴染みのないことだった。

今、当たり前のように人類が共有している四次元目としての時間概念は、長い間、人類の蚊帳の外だった。ということを知ってから、本書「タイムマシン」を読んだ。予想できたことだが、現代のタイムトラベル物は、ウェルズの時代からかなり昇華されているという感想を抱いた。

本書はタイムトラベラーが未来へ行き、現代に帰ってからその体験を淡々と語るという内容で、娯楽作品というよりは人類の未来を憂いた哲学思想的な内容になっている。またこの小説で過去へ行くことはない。過去の行動で歴史が改変され、現代に影響を与えるというお馴染みの概念は、後に生み出されたのだとわかる。

この小説の未来の人類は、地上で過ごすイーロイと地下で過ごすモーロックに分かれ、外見も異なる。資本家と労働者の分断の成れの果てとタイムトラベラーは分析する。現代人が読むと荒い設定に感じるが、科学が発展しあらゆる難題が解決してしまうと、人類がイーロイのようなってしまう可能性はあるように思う。

未来の地上は楽園のように描かれている。果樹で満たされ、病気は根絶され、イーロイは苦労と縁がない。のちにモーロックに捕食される存在であるとわかるが、イーロイはその日暮らしで穏やかに生きている。地上の楽園に生きるイーロイは無垢な幼児のように描かれているのだ。

それを見たタイムトラベラーは、人類の衰退期に来たようだと言う。そして、このように語る。

万能の知性というのは、変化、危険、困難の代償で、つまりは自然の法則なのだが、とかく人はこのことを見落としがちだ。

変化、もしくは変化の要求がないところに知性は育たない。種々さまざまな必要と危険に否応もなく向き合う生き物だけが知性に覚醒する。

この台詞はウェルズ自身の思想をタイムトラベラーに代弁させたものと思われる。進化論を前提とした思想だが、進化論すらこの時代に大衆に広く受け入れられていたわけではないだろう。

現代人には娯楽作品としては味気なくとも、1895年に29歳の若者によって描かれた作品として読むと、やはり驚きがある。私がこの時代に生まれたとして、タイムトラベルという概念を思いついたとは思えないし、29歳で人類の未来をこのような哲学的思想をもって危惧できたとは到底考えられない。