隠匿的読書

囚われがちの脳を読書で解放

「認知バイアス 心に潜むふしぎな働き」の感想

Amazonで「認知バイアス」で検索すると関する本は何冊も見つかるが、本書は2020年に出版された最近のものである。

認知バイアスにまつわる本を読んだ人なら、読んだことがある内容が多いかも知れない。しかしこの本は、とても読みやすい文章でページ数もほどよい。思考が偏ってるかも?と思った時に、ふと読み返すのにちょうどいい。

情報化社会において認知バイアスがもたらす悪影響は周知の通りである。認知バイアスについては義務教育の中でしっかり教えた方がいい。この本は大学で講義している人が書いているので、教材としても適していると思う。

読んだことがある内容が多かったが、それでも初めて知る驚く内容もあった。特に印象的だったのが「言語がもたらすバイアス」の章。言語習得する、語彙が増えるということは、むしろ認知バイアスを退ける効果ばかりのように思いがちだが、どうもそうではないようだ。

まず言語習得が絵を下手にするいうもの。言語障害があるけど絵がうまい人というと、日本人なら山下清を思い浮かべる人が多いかもしれない。本書では海外のケースだが、重度の自閉症の6歳の子供が描いた躍動感のある馬の絵が紹介されている。

著者が講義の中で「実写的な馬」を大学生に描いてもらった絵も載っており、こちらのほうが6歳児が描いたものに見えてしまう(笑)。私も写真も見ずに描いたら似たような絵になりますが・・・言語能力が発達すると実写的な絵画能力は後ろに回るようなのだ。言語能力も高くて絵もうまい人もいるので退化するということではない。

見たままを記憶する写真的記憶という能力は、まだ言葉がおぼつかない幼児やチンパンジーに顕著に見られるらしい。本書でチンパンジーの写真的記憶の能力を示す動画が紹介されている。

youtu.be

ランダムに表示された1〜9の数字を、小さい方から順にタッチする実験で、チンパンジーは素早く押していく。ほとんどの人間より早いはずだ。写真的記憶がもたらす能力なのだろう。野生に生きる彼らにとって、見たままを記憶する能力は重要である。

本書では、人間は言語習得と共に写真的記憶が失われるわけではないとも付け加えている。ただ表に出にくくなるだけだと。言語能力が生きていく上で重要な環境では、言語能力が写真的記憶能力より優先して使われるようになるということだろう。

ちなみに私は短い数字の短期記憶が苦手である。パスワード認証の際に二要素認証で6桁の数字が求められることがある。これすら覚え間違うほど短期記憶がひどいのだ。けど画像として目に焼き付けることを意識すると間違いが少なくなったのだ。

たとえば「531672」とい数字を「ごーさんいちろくななに」と言語で覚えるのではなく、目に焼き付けるように画像として覚えることを意識する。こうしたほうが入力間違いが少ない。能力を「賢い←→おろか」という一次元的に測る考えもバイアスということなのだ。

言語によるバイアスでもう1つ印象的なのは、水が入った2つのコップを傾ける話である。2つのコップは高さは同じだが幅が異なる。2つのコップの水の水位は同じ高さまで入っている。この2つのコップは同じペースで傾けると、幅が広いコップの方が早く水がこぼれる。

これを水がこぼれるのはどちらが先か、もしくは同じかと質問すると、正解する人は少ないらしい。私も同じだと思った。しかし目隠ししてコップを傾け、水がこぼれる直前に止めてくださいという実験にすると、多くの人が幅の広いコップを先に止めるという。頭でわかっていなくても、体はわかっているということらしい。

いろいろな認知バイアスの話を挙げた上で、二重過程理論のシステム1(直感的で早い)、システム2(熟慮的で遅い)という区別は陳腐だとしている。言語によるバイアスにあるように、熟慮よりも直感の方が論理的に正しい解を導くこともある。本書では認知バイアスに従った方がうまくいく場合もあることを示唆している。

最後の章は「認知バイアスというバイアス」というタイトルを付けて以下のように説いている。

ある課題を用いてできないから人は愚かだとか、逆に別の課題を用いて成功したので賢い、などどいう結論を出すこと自体が大きな間違いであることがわかる。またそれがどちらのシステムなのかと問うことも生産的ではない。

とかく認知バイアスというと負の側面しかないように思いがちだし、私もそのように思っていた。でもそれすらもバイアスだったのだ・・・

いずれにせよ、現代の知能社会、技術社会を直感だけでは生きられないし、認知バイアスメタ認知することを意識したい。そのためにも、この手の本はたびたび読み返すべきだと思う。

1984年を読んで。個人の自由を守るものは何か

オーウェルの小説・1984年は監視社会の恐怖を描いた作品として有名である。テクノロジー監視社会化が懸念される昨今、この小説のようになってきた、予言本だ、という論調を目にすることがある。気になって私も読んでみたが、現代の監視社会を考える材料にはならないと感じた。

※私が読んだのは、この「一九八四年 新訳版」だが、以降漢字ではなく1984年と書く。

まず監視の仕組みが現代で危惧されているものと隔たりを感じる。テレスクリーンによって、24時間、盗撮、盗聴されているという程度の設定で、監視のテクノロジーについて深掘りする描写はない。昨今懸念されているのは、このような類の監視ではない。

ウェブサービスを提供する企業は、個人の行動を集積し、A Iで分析し、その人の趣向にあったコンテンツやフォローすべきユーザーを「おすすめ」する。その目的は言論統制ではなく、サービスの利用時間を長くして収益を上げることが目的である。

ユーザーは「おすすめ」により、趣向に偏った情報を受け取るようになり、似たような思想の者同士でフォロー関係になる。サービスは広告配信する際、その広告と親和性の高いユーザーに配信する。広告主はその仕組みを利用し、心理誘導しやすいユーザーを対象に偽情報を流すこともできる。

このように民間企業が個人の行動を監視し、お金に転換する過程で生じる分断、怒りや憎しみの増幅。こういったことが現代の監視社会化で危惧されていることだろう。中央政府による国民監視とは異なり、監視の主体(企業)が複数いるというのが特徴だ。

中国は中央政府による情報検閲が行われているし、プライバシー意識の高い欧米諸国よりデジタル監視が進んでいると言われる。犯罪など望ましくない行動をするとスコアが減点され、スコアが基準値を下回ると生活に制限がかかるようにもなっている。

中国市民の中には、そのような監視によって治安が向上したことを歓迎する人も多いという。この件は「幸福な監視国家・中国」に詳しい。

中国の監視社会を賛美する内容ではなく、中国在住の日本人が一歩引いた視点で書いている。1984年よりは、こちらの方がデジタル監視社会の実態を知る上で読む価値があるだろう。

政府が望ましいとする行動を人々に促すことは、犯罪が減るという良い面ばかりでなく、無意識に国民が国家権力に従うようになるという危惧もある。いずれにせよ、私たちが直面しているのは、テレスクリーンのような物理的監視があり、抑圧や疑問を感じて生きるという1984年の監視社会とは異なるものだ。

インターネットやAIを用いた高度で巧妙な現代の監視の仕組みからすると、1984年の監視システムは前時代的でお粗末なものに思えてしまう。この小説が刊行されたのは1949年だが、著者が未来のテクノロジーを想像できなかったというより、そもそも監視のシステムについて重きを置いて書いていないと思うのだ。

常時監視されているという設定は、主人公の監視を逃れた逸脱行動が、いつかバレて捕まることを想像させ、話に緊張感を与えるために設けられているだけのように見える。オーウェルが主として描きたかったことは別にあると思う。

それは全体主義の恐怖と、それがいかにして生まれ、維持されるかについてだろう。それを著実に示すのは、物語後半、党の幹部・オブライエンが主人公・ウィンストンを再教育のために拷問にかけるシーンにある。

オブライエンはどうして我々は権力を欲するのかとウィンストンに問う。彼は「あなた方は人間に自らを律するだけの能力を信じていないからだ」と答えるが、オブライエンは馬鹿なことを言うなとこう言うのだ。

ナチス・ドイツロシア共産党は方法論の上ではわれわれに極めて近かったが、自分たちの動機を認めるだけの勇気をついに持ち得なかった。

かれらは自らを偽ってこう述べ立てた➖いやあるいは本当に信じ込んでいたのかもしれない➖自分たちは止むをえず、そして暫定的に権力を握ったのであり、その少し先には人間が自由で平等に暮らせる楽園が待っているのだ、と。

われわれはそんなことはしない。権力を放棄するつもりで権力を握るものなど一人としていないことをわれわれは知っている。権力は手段ではない。目的なのだ。

迫害の目的は迫害、拷問の目的は拷問、権力の目的は権力、それ以外に何がある。

1984年を刊行した当初オーウェルは、この小説についてこのように語ったらしい。

わたしの最新の小説は、社会主義イギリス労働党(私はその支持者です)を攻撃することを意図したのでは決してありません。しかし共産主義ファシズムですでに部分的に実現した(…)倒錯を暴露することを意図したものです(…)。小説の舞台はイギリスに置かれていますが、これは英語を話す民族が生来的に他より優れているわけではないこと、全体主義はもし戦わなければどこにおいても勝利しうることを強調するためです。

1984年 (小説) - Wikipedia

この中で大事なことは「どこにおいても」という部分だろう。オーウェルは政治的な主義主張に関わらず、どこにでも全体主義は発生しうると言いたかったのだ。

ナチス・ドイツも旧・日本帝国も反共産主義の立場だったが、ファシズムと認識されている。旧・日本帝国時代、小林多喜二によって資本主義批判の蟹工船が発刊された。小林多喜二は後に共産党員となり、最期は密告によって捕まり警察の手で拷問死した。

社会主義共産主義に傾倒した国家では革命の名の下に虐殺が行われ、冷戦時代は民衆の監視、弾圧も行われた。社会変革を目的とした革命は、権力の維持にすり替わる。そもそも革命家たちは権力を欲しただけではないかという疑問も拭えない。

こういった現実に起きたことを風刺して描いた世界観、それが1984年のディストピアなのだ。この小説はテクノロジー監視社会の預言書ではなく、全体主義の寓話として読むべきだろう。

現代の監視社会は分断をもたらすもので、全体主義とは真逆の流れを作っている。監視抜きにしてもインターネットの情報洪水は、人々に多様な思想をもたらしている。現代において国家規模の全体主義は起きにくくなっていると思う。

よって1984年は現代監視社会を考える材料にはならないと思うが、それでも娯楽小説として面白いし、現代に通じる風刺もあると思う。物語後半、ディストピアの実態が暴かれるが、軍事力が拮抗する大国間の絶え間ない戦争、恒常的な破壊、それが富の増加を防ぎ、資本主義の芽を摘むという設定は面白い。

富が増加しないことで、人々は一昔前より貧しい生活をしており、その生活が向上する余地もない。また党員の仕事は、なんら市場価値を生み出さない情報の隠蔽、改竄、取り締まりのような党の権力を維持するためだけのものである。

かたや党から動物とみなされている労働階級=プロールは、ほとんど監視対象になっていない。彼らの間では市場経済がまだ存在している。主人公は、いつか彼らが党の体制に勝利するだろうと言う。このような党員とプロールの対比は何を示唆しているのだろうか。

とかく監視社会以上に批判の槍玉に上がるのが資本主義である。しかし資本主義のアンチテーゼだった共産主義社会主義でも集権化、政治エリートによる富の偏在、全体主義が起きた。むしろ自由市場経済を否定した社会の方が富の移動が起きにくい分、権力が固定されやすい面もあるだろう。

1984年ではそのような世界が描かれている。資本主義が敗北し、3つの強国によって世界は分断されているが、どの国も同じような監視体制が敷かれている。その体制は絶え間ない戦争によって維持されているのだ。

オーウェル自身は民主社会主義者を自称したようだ。民主社会主義者についてWikipediaにはこうある。

民主社会主義者は、資本主義は自由、平等、連帯という価値観と本質的に相容れないものであると主張している。

民主社会主義 - Wikipedia

オーウェルが資本主義にどの程度否定的だったのかわからないが、1984年は資本主義が敗北した後にディストピアが訪れたかのように描いている。プロールの描写からも少なくとも市場経済については否定的ではなかったように感じる。

自由市場経済が個人と国家権力の間に線引きをし、個人の自由を保護する側面もあると思うが、オーウェルもそこは同じように考えていたのかもしれない。1984年の読者もこの世界でならプロールに生まれた方がマシだと考えるのではないだろうか。意図的にそのように描かれているように思う。

1984年にあるような全体主義的監視社会は現代では現実味がないが、アルゴリズムで集められた似た者同士の島宇宙はサイバー空間に点在している。その島宇宙に限定した思想統一、改竄情報(フェイクニュース陰謀論)の流布はある。

島宇宙で影響力のある人間は、敵を設定し島宇宙の住民を煽る。島宇宙の住民はそれに歓喜し、敵に罵声を浴びせる。Twitterでお馴染みの光景だ。1984年で戦争の報道を見た民衆がビッグブラザー歓喜し、ゴールドスタインに罵声を浴びせる場面と重なる。

社会不満から目を逸らさせるガス抜きが、個人の主体的な思考を阻むのだ。現代の島宇宙の住民は、自由な思想を持てる時代にいながら、偏った思考に染まり、主体的な思考を失い、現実を誤認し、やがて時代から取り残されていくだろう。

そもそも島宇宙で影響力のある人間は、個人的利益や承認欲のために、世直しを訴え人々を導くようなふりをしているだけかもしれないのだ。権力の目的は権力という言葉が当てはまる。どんな時代であれ、個人の自由を守るためには自立的な人間であらねばならない。それこそ1984年が現代に与えてくれる教訓かもしれない。

1984年のスローガン「無知は力なり」は、哲学者フランシス・ベーコンの「知は力なり」の逆意的造語である。「隷属は自由なり」も隷属を逆意にすると「自立は自由なり」となる。知が自立の力となり個人の自由を保障する。これがオーウェルの真のメッセージではないだろうか。

1895年の若者が書いた時間旅行小説・タイムマシン

ウェルズの小説「タイムマシン」はタイムトラベル小説の元祖と言われている。ウェルズ29歳、1895年に書かれたものだ。

タイムトラベルについての考察本「タイムトラベル」によると、人類は長い間、タイムトラベルという空想と無縁に生きてきたようである。思いついた人はいたかもしれないが、タイムトラベルという概念を持ち出した話は、この小説以前には見当たらないらしい。

浦島太郎のように、自分以外の周囲だけ早く時間が過ぎるといった話は、過去にも世界に散見されるようである。しかし現代から未来へ行って、また現代に戻ってくる「時間旅行」という概念が登場する話は、ウェルズの「タイムマシン」以前にはないらしい。

「タイムトラベル」によると、人類は長い間、変化の少ない世界で生きてきた。自分、親、祖父母、そして子供も孫もひ孫も、ほとんど変わらない世界を生きていた。人類の終末を信じられることはあったが、占い師が100年後の世界を予言するようなことはなかったそうだ。変化が乏しい世界では、その必要もないからだという。

時間経過と共に世界が変化していくことが、誰の目にも明らかになった産業革命以降になって、タイムトラベルという概念が生み出されたようだ。本書のあとがきにもあるが、家庭用ビデオデッキが普及するまで、動画の巻き戻し、早送りも一般人に馴染みのないことだった。

今、当たり前のように人類が共有している四次元目としての時間概念は、長い間、人類の蚊帳の外だった。ということを知ってから、本書「タイムマシン」を読んだ。予想できたことだが、現代のタイムトラベル物は、ウェルズの時代からかなり昇華されているという感想を抱いた。

本書はタイムトラベラーが未来へ行き、現代に帰ってからその体験を淡々と語るという内容で、娯楽作品というよりは人類の未来を憂いた哲学思想的な内容になっている。またこの小説で過去へ行くことはない。過去の行動で歴史が改変され、現代に影響を与えるというお馴染みの概念は、後に生み出されたのだとわかる。

この小説の未来の人類は、地上で過ごすイーロイと地下で過ごすモーロックに分かれ、外見も異なる。資本家と労働者の分断の成れの果てとタイムトラベラーは分析する。現代人が読むと荒い設定に感じるが、科学が発展しあらゆる難題が解決してしまうと、人類がイーロイのようなってしまう可能性はあるように思う。

未来の地上は楽園のように描かれている。果樹で満たされ、病気は根絶され、イーロイは苦労と縁がない。のちにモーロックに捕食される存在であるとわかるが、イーロイはその日暮らしで穏やかに生きている。地上の楽園に生きるイーロイは無垢な幼児のように描かれているのだ。

それを見たタイムトラベラーは、人類の衰退期に来たようだと言う。そして、このように語る。

万能の知性というのは、変化、危険、困難の代償で、つまりは自然の法則なのだが、とかく人はこのことを見落としがちだ。

変化、もしくは変化の要求がないところに知性は育たない。種々さまざまな必要と危険に否応もなく向き合う生き物だけが知性に覚醒する。

この台詞はウェルズ自身の思想をタイムトラベラーに代弁させたものと思われる。進化論を前提とした思想だが、進化論すらこの時代に大衆に広く受け入れられていたわけではないだろう。

現代人には娯楽作品としては味気なくとも、1895年に29歳の若者によって描かれた作品として読むと、やはり驚きがある。私がこの時代に生まれたとして、タイムトラベルという概念を思いついたとは思えないし、29歳で人類の未来をこのような哲学的思想をもって危惧できたとは到底考えられない。

 

現代人が蟹工船から得られる教訓はなんだろうか

いまさらながら蟹工船を読んだ。1920年、太平洋戦争前に書かれた小説であるが、現代も資本主義批判の題材として取り上げられることも多い。結局、搾取の構図は当時も今も変わっていないのだと。

著者の小林多喜二は、蟹工船および以降の作品が原因で要注意人物としてマークされ、最期は警察に捕まった後、亡くなった。遺体の状況から拷問死だと言われている。29歳という若さだった。そういう著者の死からもこの作品は知名度が高い。

しかしいざ蟹工船を読んでみると、あまり洗練された文章には思えなかったというのが正直なところだ。方言が多いことも読みにくい理由にあるけど、登場人物一人一人を個別に認識しづらく、比喩表現も今ひとつ映像として浮かびにくい印象だった。

私が読んだ本にはあとがきがあり、そこで小説家の野崎六助氏がこう書いている。

彼らには、名前も、個性も、要望も、内面心理もない。作者によって剥奪されている。記号だ。現実世界で決定的に非人間化されている集団の真実を形象化するために、作者は決然として、個人のリアリティのない<人間>を描くことを選んだ。

私のような素人ではなくプロの小説家が言うのだから、そういう意図があったのかもしれない。ただそれが効果的に働いているかというと疑問がある。むしろリアリティのある人間として描き、彼らにもっと感情移入させたほうが読み手の怒りをかき立て効果的だったように思う。

この小説は著者が25歳の時に書かれたものらしい。あとがきの野崎氏によると著者と交流があった中野重治蟹工船をこのように評価したとある。

「北海道の二十五歳の一銀行員が自分の体験しない世界を描いたもの」と評価した。

〜中略〜

最もよく読まれている小林作品が、プロレタリア文学の青春の、若い苦い果実でしかないと断定したようなものだ。

リサーチが不足した上で想像で描いた未熟な作品という意味だろうか。また著者が尊敬する志賀直哉に自分の作品の感想を聞かせて欲しいと手紙を送った時、志賀は以下のように返事を書いたらしい。

小林多喜二と志賀直哉—志賀を敬慕した多喜二の死、志賀は「実に不愉快、暗澹たる気持ち」と‥ - 彦四郎の中国生活

「‥‥私の気持ちから云えば、プロレタリア運動の意識が出てくるところが気になりました。小説が主人持ちである点を好みません。止むを得ぬことのように思われますが、作品としては不純になり、不純になるが為に効果も弱くなると思いました。大衆を教える云うことが多少でも目的になっているところは矢張り一種の小児病のように思われました。‥‥‥」

私も似たような印象を持ったというのが正直なところだ。宗教の教祖が自分の教えの正当性を広めることを目的として書いた話のような印象。だから文学的な印象を持てず、小説として洗練されているように思えないのだろう。ただ書いた動機が明確だから話の筋はわかりやすかった。

  • 仕事を求める貧しい人々が蟹工船に乗ることになる
  • 労働者は北海道の北の海で重労働を強いられる
  • 船で一番権力のある監督の支配下で、労働者は奴隷のような扱いを受ける
  • 船が遭難し岸に着いた時、そこに住むロシア人に救われる
  • そのロシア人は働かないでお金を儲けている人がいるが、働くプロレタリア(労働者)が一番偉い、あなた達プロレタリアが団結すれば勝てると言う
  • 監督は仕事上で労働者を競わせ勝者には景品を与えることで、劣悪な労働環境でやりがいを与えた。対して一番働きの少ない者には焼きを入れた
  • 監督は労働時間を厳守するからロシアはダメになった、日本男児は真似してはならないと言ってハッパをかける。その言葉にペテンと思う者もいたが、日々の苦しさが英雄的なものに思えてしまう者も多くいた
  • 労働者たちは自分たちは劣悪な環境で安い賃金でこき使われているのに、資本家は働かず豊かになることを強く自覚するようになる
  • ある時、死者が出るが、監督の命令によってろくに弔われず海に捨てることになった
  • 労働者たちは我慢の限界になり、団結してストライキを起こす
  • しかし監督が呼んだ護衛の軍艦から水兵たちが現れ、ストライキを主導したとされる代表者たちが拘束されてしまう
  • 労働者は「俺たちに味方はいない、帝国軍艦も大金持ちの手先だ、国民の味方だなんて糞くらえだ」と言う
  • しかしもう一度だと労働者は団結してストライキを起こし、ついには監督を追いやる(ここは詳細はあまり書かれず、あっさり後日談のように終わる)
  • 監督はストライキのような不祥事を引き起こし、生産高に大きな影響を与えたという理由で、あっさりと解雇された
  • その時、監督は今まで騙されていたと言う(監督もまた資本家から見れば、使い捨ての労働者の一人に過ぎなかった)
  • 最後に"この一遍は、「植民地における資本主義侵入史」の一頁である"と書いて終わる

資本主義、日本軍、帝国主義に対する批判、ロシア共産主義への好意がこめられていることがわかりやすい。

この小説は実話ではないが、この時代に蟹工船は実在しており、同様に過酷な労働環境であったことは変わりないようだ。話の中に出てくる炭鉱の仕事も命がけの重労働だった。炭鉱の仕事の方が全国各地にあったので、親世代から話を聞いた人も多いのではないだろうか。私も親から祖父母の話として聞いたことがある。

この時代は機械化も進んでおらず重労働で危険な仕事が多かった。労働者を守る組合も法律もろくになく、命の危険があるような過酷な労働環境で弱い立場の人が選択の余地なく働かされていた。かといって蟹工船の話を現代に当てはめて「今も昔も変わってない」と言うのは言い過ぎではないかと思う。

小泉構造改革による時代転換の過渡期、労働市場・労働環境に強い歪みが生じたのは事実だと思う。非正規雇用が増え、弱い立場の人を囲って劣悪な環境で低賃金で働かせることが横行したのも事実。ただその後、問題認識が広まり改善があったことも事実だと思う。

ブラック企業という言葉が周知されるようになり、インターネット時代、特にSNSもある今、過労死や労苦による自殺者が出れば、企業は徹底的に叩かれるようになった。今の企業は以前に増して世間の厳しい目にさらされているのも事実ではないだろうか。

さすがに今は蟹工船のような労働環境はそうはないはず。蟹工船は乗ってしまったらそれこそ逃げ場がない。マインドコントロールのような精神的な追い込みではなく、物理的に外に助けを求めることはできない。その上で死と隣り合わせの仕事をしなければならない。ここまでの労働環境は今の日本ではそうそうないだろう。

また終身雇用が維持されていた時代の方が、今より労働環境が良く幸せだったというわけでもないだろう。当時は当時で会社員を辞めるということは落伍者になるかのような印象があった。労働市場の雇用流動性が低いから転職も今よりハードルが高かった。それゆえ人生に束縛感を感じていた人も多かった。

つまり多くの人が会社に人生を握られている状況だった。うかつに会社を辞められないからこそ会社の命令は今より強権的だった。望まない転勤を断れなかった人も多かった。当時から過労死は問題になっていたにも関わらず、「24時間働けますか?」といった栄養ドリンクのコマーシャルが公然とテレビで流れていた時代でもあった。

そんな親世代をもつ私の年代は、それをレールの上の人生だと嫌って自ら非正規雇用の道を選んだ人もいた。70年代生まれの私には、当時の時代感覚はリアルなものとして記憶にある。その時代の若者を体よく利用する者が現れ、理不尽な非正規労働環境が蔓延したのも事実だろう。

私も派遣会社の下で日雇い労働をしていたことがある。現場に全く立たず上前をはねるだけの輩も見てきた。彼らは当然私のことなど駒としてしかみていなかった。私は就職してそこから脱することができたが、取り残された人もいたことは想像できる。

その後、非正規雇用の労働環境問題が広く認識されるようになった。しかし今なお世間から見えにくいところで、経済的に弱い立場の人々が半ば選択の余地なく、低賃金で働かされている。正社員でも無理な仕事を押しつけられ、精神的に追い込まれ、ストレスをためている人、うつになり働くことが難しくなってしまった人、自殺していまう人は今もいる。

いつの時代も資本主義社会において資本家(経営者)と労働者の間には相容れることのない利害対立と軋轢が存在するのだろう。ただ何も変わってないと言ってしまうと、改善しようとしてきた人たちの歩みも踏みにじるように思う。それに弱者が虐げられるという事象は資本主義にのみ起きることではないはずだ。

著者は共産主義支持者であり、実際に共産党員でもあったことに触れずに、この小説をネタに資本主義のみ語るのはフェアではないと思う。小説の中に当時のロシア共産主義を讃辞するような場面がある。この時代の列強国による植民地化、帝国主義を後押ししているのは資本主義だと考える人も多かったようだ。そのアンチテーゼとしての共産主義に著者も傾倒したのだろう。

しかし彼は太平洋戦争前に亡くなった。冷戦を経て共産主義社会主義が起こした悲劇や衰退を見ることもなかった。もし彼が生きてそれを見ていたらどう思っただろう。現代を生きている私たちは、その歴史も含めてこの小説について考えるべきではないだろうか。

自由市場経済を否定した国では、計画経済を行う政治エリートたちに富が集中し、そしてまた強者と弱者の分断が起きた。民衆は政府の監視下におかれ、反乱分子と見なされれば投獄、拷問、虐殺されることも起きた。つまり資本主義以外を選択しても、蟹工船の著者と同じような悲劇は起きた。

市場経済以外でも国家繁栄を名目とした公共事業として劣悪な労働環境が生まれ、そこで弱者が働かされる状況は生み出される。主義や社会システムが何であれ、人間社会に強者と弱者という分断が生まれる以上、いつでも弱者は虐げられうるということだろう。

この小説から現代人が学ぶべき教訓があるとすれば、搾取しようとする強者に対して団結して立ち上がる勇気を持たなければいけない、多数の弱者が団結すれば少数の強者を倒すことができるということではないだろうか。

この小説の話の中に、劣悪な状況の中で労働者を競わせて賞品を与えたり、労働時間を厳守するからロシアはダメになった、日本男児は真似してはならないと言ってハッパをかける描写がある。これは今で言うところのやりがい搾取だろう。

現代の経営者があおる人間教育や家族感演出も似たようなものだと思う。それらは搾取のための欺瞞に過ぎない。それ受け入れてしまうと、理不尽な労働環境も受け入れてしまうことになる。小説の中に仕事の出来が悪い者に焼きを入れる描写もあるが、現代でも誰かをスケープゴートにして社員の士気を維持することは行われている。

私は若い時からこういったことに不快感を持っていた。当時は資本主義がどうとかまでは考えていなかったが。いずれにせよ現場で働いているのは自分で、雇用側はそれに見合った報酬を払うのが当然だ。それだけの関係なのに人間教育、家族という概念が入る隙がどこにあろうか。そう考えていた。

この小説の話にあるように労働者が団結して働くことを辞めれば、経営者も損失を被るから困るのだ。現場で働く立場のみんながおかしいと思うなら、みんなでおかしいと声を上げることが大事ではないだろうか。蟹工船の話が現代にも通じる教訓を与えてくれるとしたら、そういうことではないか。

マルクスが生きた時代の粗暴な資本主義からの労働環境改善は、そのようにして労働者の権利を訴えてきた人々の歩みによるものだろう。

 

ノルウェイの森は死とセックスだけじゃない

今さらながらノルウェイの森を読んだ。20年くらい前に海辺のカフカを途中で挫折して以来、苦手意識を持ってしまい、村上春樹の小説を読むことはなかった。先日、図書館でふと目に留まり、有名な作品だから読んで見ようと手に取った。いざ読んでみたら期待以上で内容に驚きもあった。

簡易な言葉、良きメタファー、効果的なアレゴリー

全体的には主人公・ワタナベの淡々とした語りが占め、長編ながらそれほど話の浮き沈みはなく、大枠では予測できる話の流れだった。しかし登場人物の死については、唐突に話の中に出てくるのが特徴的に思えた。まず冒頭、ワタナベの昔話が淡々と続いているかと思えば、急に親友キズキの死の話が出てくるのは驚かされた。

緑の父親が海外に行っておらず死にかけている話も、ワタナベと緑の何気ない会話からいきなり出てきて、そのまま病院に行く話になる。後半、ページ数が残り少なくなってきたので、そろそろと予測はしていたが、直子の死も割合唐突である。こういった仕掛けのおかげか淡々とした語り口調ながら飽きずに読めた。

事前に読んだある本の中で、村上春樹は、簡易な言葉、良きメタファー(直喩、暗喩、比喩)、効果的なアレゴリー(寓意)の3つを念頭に書いているとあった。私がこの小説を楽しく読めたのは、それらに注目しながら読み進められたからというのもある。

海辺のカフカで苦手意識を持っていた村上春樹の小説だが、この小説はスラスラ読めて拍子抜けしてしまった。比喩表現も自分じゃまず思いつかないなあと思えるものがあり、それもおもしろかった。

緑の父親に会った時のワタナベの台詞「乾いた唇のまわりにはまるで雑草のようにまばらに無精髭が生えていた」は死にかけている人間をイメージできるし、永沢のワタナベを評する時の「遅い目の朝飯と早い目の昼飯のちがいくらいしかないんだ」「ただ呼び方が違うんだ」という台詞は、対極に見えるけど似たもの同士という表現をするのに的確なものを感じた。

特にアレゴリーに関しては、30年以上前の作品ということを念頭に置いて読むと、若者を取り巻く環境や心理は、当時も今もあまり変わっていないのだなあと思える。この小説は世界中で読まれているのだから、おそらく国境をまたいでもそうなのだろう。

寮の共用電話や手紙で連絡を取り合う、学生運動など、昭和を思わす描写もあるが、そういった時代設定は物語に大きな影響は与えない。対して登場人物の台詞を通じた社会に対する著者の視点は、現代社会にも当てはまるような内容になっている。

変わっていく緑の印象

緑に対する私の最初の頃の印象は、頭が良くなく、性にあけっぴろげで、いちいち人を観察する態度もイライラさせられる、というものだった。実際こういうタイプの人は現実にもいるし、私が嫌いなタイプである。しかし、上巻でそういった印象を抱かせることは、下巻で印象を変えるための布石だったと思い知る。

緑は大学で所属していたクラブの政治色のある学生をこき下ろす。彼らは革命とかえらそうな言葉を振りかざし、お前は何も考えてないと言うが「四年生になったら髪を短くして大企業に就職していく」「自分に知らないことがあるのを怖くて、みんな同じ本を読んで、同じような言葉をふりまわしている」「彼らはインチキだ」とぶちまける。

この場面より前に大学でストライキが起きて休校になる場面がある。ワタナベがその後、荒れた大学を想像して行ってみると以前と変わっておらず、しかも講義の前列に真っ先に座っているのが、ストライキで前面に立っていた生徒だった。彼らは大学解体などと言いながら単位を落として就職に響くことを恐れている。ワタナベはその有り様をみて腹を立てる。

その場面を思い出すことで緑の台詞は痛快さを増す。それで彼女に好感を持つようになるのだが、その後の展開はそれだけにとどまらない。緑は父親に偉そうな態度だった税務署員の話を持ち出し、革命なんて起きたって彼らの態度は変わらない。庶民はろくでもないところでぼちぼちと生きていくしかないのだと言う。

その台詞の後、緑が父親の看病をする場面になる。彼女は母親も祖父も祖母も看病してきたと言う。緑は目の前の泥臭い現実に向き合いながら、それを表立って見せずに強く生きているのだ。彼女の状況から来る現実主義には、私も親の介護を経験したから共感を持てた。私の場合、40代になってからの話だが。

緑は単に無知なのではなく、インテリぶった学生の言葉に現実感が持てないのだ。彼らは緑のような苦労はしていないだろう。余裕があるから現実感のない革命について語る暇があるのだ。目の前の現実を生きる緑と相対して、意識高い系の学生を薄っぺらく見せようとするのは、著者が学生時代に見て感じたことの風刺だと思う。

現代にも通じる社会風刺

ワタナベの唯一の男の友人、と言っていいかわからない存在の永沢は、今で言うところのハイスペック男子だ。頭も容姿もよくカリスマ性があり、親が金持ちなど持って生まれたものもあるが、努力も怠らない人間である。就職が決まった後もスペイン語を勉強する様子が描かれる。

永沢はすでに複数の外国語を話せるようになっているが、彼曰く「こういったことは努力なくしてできるか?」「なぜ世間の連中は努力もせず不平ばかり言うのか」と言う。また「不公平な社会は能力を発揮できる社会でもある」「あくせく働くのは努力ではなくただの労働だ」とも言う。彼は学生運動には言及すらしない。

ワタナベはあくせく働いた末に死にかけている緑の父親を思い浮かべ、彼は忙しすぎて外国語の勉強を始めることなど思いつきもしなかっただろうと考える。そしてワタナベの親友だったキズキは自殺し、恋人の直子は精神を病み療養中だ。自分含め弱さを持つ人間を知るワタナベは、永沢のことを浮世離れした人間のように冷めた目で見ている。

私も親の介護の日々の中で目の前の現実に向き合わなければいけなかったし、緑に共感できるところはある。仕事と介護を両立できたのは、凡人ながら努力を積み重ね、在宅ワークでもそれなりの収入を得られるようになったからで、永沢の言い分も共感できる。とはいえ、勉強することの見返りを経験的に得られない人がいることも理屈ではわかる。だからワタナベの視点も理解できる。

30年以上前の小説だが、登場人物を通じた社会風刺は現代にも通じる。うつ死、ヤングケアラー、意識高い系、ハイスペなど現代のスラングがぴったり当てはまる要素がちりばめられている。さらにはこの時代に、レイコの言葉を通じて「日常に潜むサイコパス」まで的確に描写してあるのには驚きである。

この小説の発刊が1987年、羊たちの沈黙の公開が1991年。2000年くらいまでは、サイコパスと言えばハンニバル・レクターのような知能のレベルは高いが、異質な価値観と猟奇的な殺人衝動を持つ人間をイメージする人が多かったのではないだろうか?

レイコの生活を崩壊させたサイコパス中学生は「一見魅力的だが、人心掌握に長け他人を思うままに操る」という部分は従来認識されていたサイコパスと同様だが、猟奇殺人などは犯さず周囲に馴染んで日常生活を送っている設定だ。

とはいえ、彼女は自分の利益しか考えておらず、自分の優れた特性はそのために使って生きている。このような日常に潜むサイコパスは、最近になるまでほとんど認識されていなかったように思う。それが30年以上前の小説に描かれているのは驚きだった。

ワタナベと永沢の奇妙な友情

ワタナベと永沢の奇妙な友情には、どこか惹かれるものがある。永沢はワタナベを「自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか。そういうことにしか興味を持てないから、自分と他人を切り離してものを考えることができる」と評し、そこが似ているからとワタナベに好感を持っている。

実際はワタナベ自身が言うように、そこまでストイックではなく、想いがある人間には理解されたいと思っているが、それ以外の人間には理解されなくてもいいとも思っている。こういうワタナベや永沢の他人との距離感は、自分と重なるものがあり親近感を持てる。

ワタナベと永沢が互いに寮を出て行く時、二人は握手して分かれるが、その時の「彼は新しい世界へ、僕は自分のぬかるみへと戻っていった」というワタナベの台詞には刺さるものがある。そして永沢はワタナベに「自分に同情するな」とアドバイスを残す。

ワタナベは直子の病状が悪化した手紙を受け取り、しばらくふさぎ込む生活を送るが、その彼を再び立ち上がらせるきっかけとなるのが、この「自分に同情するな」という言葉なのだ。孤独以外に共通項はなく、深く分かり合えるわけでもない二人の友情には、なんともいえない味がある。

ワタナベは永沢の元カノ・ハツミが自殺したことを、数年後の永沢の手紙で知った時、その手紙を破り捨て二度と永沢に手紙を書かなかったと言う。この場面を読んだ時点では、ハツミのことを大切せず、今さら哀しく辛いと言う永沢への怒りのようにも思えたが、改めて考えるとそうでもなさそうだ。

ハツミが自殺したのは永沢と別れて2年後、結婚してさらに2年後とあり、永沢が直接の原因ではないはずだ。またワタナベは「人生のある段階に来ると、ふと思いついたみたいに自らの生命を絶った」と表現しており、自殺する人はその時がきたらするものだと言っているように取れる。この感覚は直子とキズキの死によって得た無力感からくるのだろう。

そう考えるとワタナベの「永沢さんにも僕にも彼女を救うことはできなかった」と言う表現もしっくりくる。手紙を破り捨てたのは、永沢への怒りというより無力感から来る怒りだったのではないか。永沢に二度と手紙を書かなかったのは、その無力感を思い出す関係を切りたかったからかもしれない。こういう形の二人の決別もなんともいえない余韻を残す。

死とセックスだけじゃない

ワタナベがレイコと寝てしまうことに違和感を感じる人もいると思うが、個人的には不自然な感じはしなかった。レイコも精神的な病を抱える人ではあるが、達観したところがあり人を包み込むような魅力がある。若く孤独なワタナベがレイコに対して母性と性が入り混じったような魅力を感じるのは自然なことに思える。男性ならわかる人も多いのではないだろうか。

この小説のレビューを見ると、当然おもしろくないという人もいる。おもしろいと思えるかどうかは、登場人物に共感できることがどれほどあるかだろう。それがあまりないとレビューにもあるように、ただの官能小説に思えてしまうだろう。私は性的な描写は割とどうでもよく感じて読み飛ばし気味だった。

村上春樹はこの小説が10万部売れている時は人々に愛され支持されていると感じたが、何百万部売れてからは自分は憎まれ嫌われていると感じるようになったと言ったそうだ。またあの小説は「セックスと死のことしか書いていない」と言ったこともあるらしい。

wondertrip.jp

この小説が有名になってターゲットとしていない層にも読まれるようになり、そういう人には死とセックスしか印象に残らないだろうと、皮肉を込めて村上春樹はそのように言ったのかもしれない。私にとっては決してそれだけの小説ではなかった。

 

スミヤキストQの冒険を読みました

ある日、図書館へ行くと、「悪のしくみ」という本が目についた。副題に中学生までに読んでおきたい哲学とある。内容は著名な作家たちが悪を題材として書いた短編集だった。悪は貧しさなど環境が生み出すとか、この話で真の悪は誰なのかとか、立場によって悪は正義になりうるとか、だいたいはそういう内容だった。

作家たちは一昔前に活躍した人たちで、今読んで新しい視点を得られる話はなかった。そう思うのは、彼らが残した作品が後世に影響を与え、それを模倣した作品が世にあふれているからだろうけど。ただ、印象に残った話もあった。それがスミヤキストQの冒険の著者・倉持由美子氏の「子供たちが豚殺しを真似した話」である。

これは同名のグリム童話の話をもじった話になっているが、ごっこ遊びから殺人につながるいじめ、大人の責任のなすりつけ、議論の末に元の話から脱線した教訓、さらに時代を経てその教訓すらも形骸化してしまう内容で、とても童話的な話ではない。それがブラックジョークのように思えて、クスッと笑わせるものがあった。

それで、この人の小説・スミヤキストQの冒険を読んでみようと思ったのだ。内容は、スミヤキストという政治結社に属する青年Qが、孤島にある感化院(今で言う児童自立支援施設)に潜入し、その実情調査と革命を実行するというものである。

Qはスミヤキストの崇高な思想=スミヤキズムの実践者であると思い込み、それを自尊心の拠り所としている。また、その崇高な思想を説くことを使命とも考えている。しかし、スミヤキストであることを公言することは、相手に警戒心を抱かせる。だからそれを伏せつつ、スミヤキズムを説かねばならないとも考えている。

と、自分を何か重要な使命を背負った人間であるかのようにQは思っているが、実際はたいしたのない凡庸な人間である。現代的にいうと中二病というのがふさわしいかもしれない。この小説が描かれた時代に中二病というスラングはなかったが、いつの時代もこのような人間がいることを知ることができる。

たとえば、裸で生活させられている感化院の少女たちを、崇高なるスミヤキストの立場からけしからんと思いつつも欲情し、罪悪感に駆られながら自慰行為にふける俗物的な面もある。また革命革命と言いつつ、ろくに行動に移すこともできない臆病者でもある。

崇高な理想や教訓も、しょせんはエリートを自認する愚かな人間の虚構。それは、私が最初に読んだ「子供たちが豚殺しを真似した話」でも感じられたことである。この類の風刺は、著者の他の作品でも見られるらしく、それを得意としていたようだ。

私は、この小説が書かれた時代背景をあまり知らずに、先入観なく読んだので、ただの娯楽小説として読むことができた。しかし、この作品が発表された当初は、共産党を揶揄していると非難を受けたそうだ。

そのことの反論として、のちに書かれたあとがきに、「自分の限られた知識と経験を動員して『これは何を意味するか』と解釈に奔走するのは、『旧人類インテリ』の悪い癖です」と切り捨てている。そして、若い世代の方がこの小説を楽しんでくれるのではないかと書いている。

当時の若者といえば、今はかなりの年齢になっているが、この作品は現代人になじみやすいのではないかと思う。むしろこの時代にこのような作品があったことに驚きだし、先進性のある作品だったと思わせる。

先入観なく読んだ私からすると、いつの時代もこういう人間はいるというのがわかるし、実在する特定の政党、組織、及びそれに属する人を揶揄したものではないとわかる。たぶん、現代人が読めば、多くの人がそう思うのではないだろうか。

Qが凡庸な人間にすぎないことをあらわにする対象が、感化院の人間である。彼らは容姿も思想も異端な存在である。そこにホラーの要素もある。文体からその姿の想像をかきたてられるが、数々のファンタジー作品に触れる機会がある現代人の方が、脳内で彼らを具現化しやすいであろう。むしろ、当時の読者たちは、どの程度具現化できたのだろうかと思う。

Qが彼らと言論を交わす場面があるが、姿同様、異端すぎる思想を前に、Qの思想は凡庸なものとして蹴散らさせてしまう。そしてQは混乱したり落ち込んだりするが、そのように中二病Qが打ちのめされる描写がまた楽しい。やっぱり、これは娯楽作品だと思える。

最後は、Qの行動は空回りしたにもかかわらず、結果は彼が望んだものと近いことになってしまう。これも物事は起こるべくして起き予測できず、人間の崇高な思想など無に等しいかのようで、皮肉が効いていておかしいのだ。

今読んでも表現に古くささは感じず、ミステリー、ホラーの要素もあるから、今の技術で映画で映像化したら結構おもしろい作品になるのではないかと思う。

無(最高の状態)を読みました

最近、自己とは脳の機能が生み出した幻想に過ぎないという話を、よく目にするようになった。受動意識仮説という仮説によると、時系列に出来事を記録する脳機能のことを自己と錯覚しているだけではないかという。

本書の中でも、脳の物語思考の機能が自己という幻想を生み出しているという。自己とは何かを科学的アプローチを交えて説明。物語思考を弱め、仏教でいう「無」を体験するための実践方法を説明している。

脳にまつわる本の中には、事故で脳が損傷したり、脳に腫瘍ができると、人格が変わってしまう話はよく紹介されている。そのような話に馴染みがある人は、自己が幻想であるという話を受け入れやすいのではないだろうか。

本書でいう物語は、自分主人公物語というと分かりやすいと思う。人は過去から現在までの出来事を、時系列に物語性を持たせて考える傾向がある。その物語は未来へも伸びていく。この物語の主人公である自己を絶対視してしまうこと、それが仏教で言うところの我執であり、苦の原因なのだ。

本書でピダハンというアマゾンの先住民が紹介されている。彼らは、我々のように過去や未来を憂うようなことはなく、現在にのみ重きを置いているという。彼らの言語には、過去や未来を表す言葉もあまりないらしい。それゆえか、鬱症状を抱える者もいないそうだ。

別の本で読んだプナンという狩猟民族についても同じようなことが書かれている。

ピダハンの本は紙の本しかないようだが、こちらはKindleでも読める。この本の内容からも、私たちの過去や未来を考えすぎる物語思考は、文化的背景による価値観も影響しているとわかるだろう。

過去や未来を憂う物語思考は、空想混じりであることは、誰しも認めるところだと思う。過ぎたことを、くよくよ悩む自分に嫌気がさすことはよくある。未来の多くは予測できないから悩みのほとんどは空想に過ぎない。実際には起きなかった悩みも多いだろう。

現実からそのような空想の物語を切り離す。これが少しでもできるようになると、物語に付随する自己も切り離される。自分主人公物語は、自己と物語がセットになっているからだ。そして物語が切り離された瞬間、絶対視していた自己が薄れ、無を体感できるのだ。

本書では物語切り離しの実践方法をいくつか挙げているが、瞑想もそのテクニックの1つなのだ。本書で好感が持てるのは、瞑想が全ての人に有効とは限らない、人によってはネガティブな感情が増加したり、自己意識が強化される場合もあると書いていることだ。

私も瞑想は苦手だし嫌いである。ASD傾向のある私は、呼吸観察のような退屈なことに集中できるはずもなく、むしろイライラしてくるのだ。本書では瞑想以外のテクニックも複数挙げた上で、自分に合ったものを選べばいいとしている。

特に本書で超越性という名で紹介されているテクニックは、誰でも無を体感しやすくてよいと思う。旅先の自然の景色に目を奪われる経験は誰しもあるだろう。この時、物語思考による自己が消えることを体感できるはずだ。そこにあるのは風景への認識だけである。

自然に限らず、見たことがないような近代的デザインの建造物や、高層ビルから都市部の夜景の明かりを眺めた時など、何かに見いる状況になると、物語思考が停止して自己が消えることを確認できる。こういう我を忘れるような体験を超越性というらしい。

超越性を経験している時、その体験を言葉で説明できず、脳が物語を生成しないことで自己が発生しないのだという。確かに言葉を口にしても、素晴らしい、きれいだとか、ありふれたポジティブな単語くらいだろう。この超越性による無は誰でも体験しやすいものだ。

私は以前から定期的に一人旅をするようにしている。行ったことがない場所、頻繁には来ない町へ行くと、脳が物語生成より、風景の認識に意識を割くことを体験できる。そうすると、狭くなっていた思考から解放され、気分がリフレッシュでき、新しいアイデアが浮かんでくるのだ。

日常と多少なりとも異なる環境へ行くと、内面より外の認識に集中するようになるのは、狩猟時代の名残りかもしれない。集落の外で命の危険を警戒しながら、食料を探すようなことはよくあっただろう。だから、今も日常と違う場所へ行くと、脳が環境へ集中するのかもしれない。今となっては時代錯誤の反応かもしれないが、その反応は利用できるものだ。

本書では、超越性以外にも脳の反応を逆手にとったような物語思考停止のテクニックが紹介されている。例えば、同じ単語をしきつめた紙を見つめたり、その単語を繰り返し唱える方法だ。しばらくそれを続けると、脳が飽き始め、意味飽和という反応が起きて思考が停止する。これも誰でも簡単に試せる方法だ。

このように瞑想のような難易度が高いものだけでなく、誰でも手軽に無を体験できるテクニックが色々紹介されている。脳が自己を作り出しているという脳科学的概念に馴染みがない人も、こうした体験から自己の存在を疑うことができるようになると思う。

本書にもう1つ好感が持てることは、深刻な問題を抱えているなら、その現状からすぐ逃げ出すこと、身の安全を確保することを優先するように書いていることだ。現実にある深刻な問題がある中、物語思考を一時停止したところで、すぐ現実の問題に引き戻されるだけである。

仕事は面倒ながらも、日常生活は送れているし休みもあるが、心が満たされない。過去の経験にとらわれコンプレックスがあり、恐れから今の行動を狭めてしまう。自己嫌悪にさいなまれる。そのような空想の自己に悩む人たちが読者対象である。