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日常の解像度が上がると人生の幸福度も上がる

以前ある記事で、女性は幸福の感度が高いから男性より幸福度が高いという話を読んだ。女性は日常のささいなことで「かわいいね」「きれいだね」と言い合って幸せを感じることができる。対して男性は競争、出世、自己実現などにとらわれ、日常のささいなことではあまり幸せを感じられない。

男性は幸福の感度が低いため、女性よりも幸福度が低く、自殺率は女性の2倍もあるというのだ。これを読んで私は、確かに女性の方が日常のささいなことで幸せを感じることができる人が多く、それゆえ幸福度が高いという点には納得した。

しかし、このことを指して女性の方が幸福の「感度が高い」という表現には違和感があった。むしろ物事への解像度が低いから、どうでもいいようなことで喜ぶ、というだけではないか。と、この時は思ったのだ。(女性の人たちに怒られそうな見解だが)

今となっては、この記事の言説が正しいように思う。女性の方が男性よりも日常に対する幸福の感度が高いということは、日常の事象に対する解像度が高いということだと思う。実体験から思うが、日常の解像度が高くなると日常のささいなことに喜びを感じる機会が増えるのだ。

私も20〜30代ごろは自己実現にとらわれていた。しかし40代以降、そのような欲求は薄れていった。日常の生活と趣味を楽しむ程度に十分な稼ぎがあるのに、それ以上頑張る意味を見出せなくなったからだ。

今は在宅ワークで生計を立て、田舎で時間的・金銭的に余裕のある暮らしをしており、日常のささいなことに目を向けられるようになった。田舎には豊かな自然があり、その鑑賞と観察を楽しんでいる。

ある時、桜の木の葉の根(葉柄)のあたりに丸いコブのようなものがあるのを見つけた。病気かと思ったら、他の葉にも同じようなコブがついていた。調べると花外蜜腺(かがいみつせん)というもので、そこから蜜が出ることで蟻などの注意を惹き、葉を食べられることを防いでいるのだった。

ある時、田んぼの水路にヤモリがたくさんいるのを見かけた。みんな背中は黒いのだが、一匹だけ色が薄く斑点がある個体がいた。これまた病気かと思ったのだが、調べるとヤモリの背中の色の濃さには個体差があるらしく、斑点はどの個体にもあるが色が濃いとそれが見えにくいだけ、ということらしかった。

自己実現のため日々熱心に仕事をしている男性諸君からは、「それがどうかしたのか。生物学者でもないのに、そんなことを知って意味があるのか。田舎に引っ込んで何をしているのか」と言う声が聞こえてきそうだ。

確かにそうなのだが、こうやって知的欲求を満たす瞬間には喜びが生じるのだ。そういった瞬間が多いほど人生が豊かであるように感じるのだ。

昔、「トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜」というテレビ番組があったが、無駄知識の提供が番組として成立していたのは、たとえ無駄であれ知的好奇心を満たすことに、人は喜びを感じるからだ。

母親は散歩の途中、私からするとなんでもないような野花を見かけては「きれいやな〜、かわいいな〜」と摘んで家に持って帰っていた。それを見ながら絵手紙を書くこともあった。母親は花の名前に詳しく、絵が上手い人だった。母親は私よりも花に対する解像度が高いから、野花を見かけた時、喜びを感じることができ、それを上手く描くことができたのだろう。

これも自己実現といった観点では意味がないことである。母親は趣味で絵を描いていただけで画家を目指していたわけではない。絵が上手いといっても画家としてやっていけるレベルではなかっただろう。それでも母親は絵を描くのを楽しんでいた。

日常のささいなことに興味や関心が湧かないのは、解像度が低いからなのだ。旅行へ行っても写真で見た景色の確認作業をするだけと思ってしまうような人は、景色に対する解像度が低いからなのだ。

仕立て屋で仕立ててもらったジャケットを何着か持っているが、そうした品質の高い服を着ると豊かな気持ちになれる。しかし服に興味がない人が仕立ててもらった服を着ても豊かな気持ちにはなれないだろう。服にそこまでお金をかけるのはコスパが悪い。ファストファッションで十分と思うだろう。そう思うのは服に対する解像度が低いからだ。

私が音楽の良さがわからず、ほとんど聞くことがないのは、音楽に対する解像度が低いからだろう。事象ごとに解像度にむらがあるのは仕方がないが、高い解像度で捉えられる事象が多いほど人生は豊かになる。

意味や価値ばかりに気を取られ、収入や自己実現に直結すること以外は無価値と考え、時間効率、コスト効率ばかりを追求していると、人生の解像度が下がって幸福度も下がっていく。そのような傾向がある人は女性より男性に多いだろう。そもそも自己実現など達成してもすぐにその喜びは消えていくものだ。今この瞬間を楽しめる材料が多い方がいい。

マインドフルネスの本を読んだとき、日常で視界に入るものをもっと深く観察してみましょう、といったことが書いてあった。最初それを読んだ時、特定の何かに注意を向ければストレスから意識をそらすことができるということなのだろう。という程度の認識しか持たなかった。

今ならわかるが、日常を深く観察するということは日常の解像度を上げる試みなのだ。日常の解像度が上がると人生の質(QoL)が上がって、日常の幸福感が高まる。その状態は幸福の感度が高いと言い換えることができるだろう。