効率主義との決別。ていねいな暮らしが幸福度を上げる。
費用対効果(コスパ)や時間効率(タイパ)が重視されるようになって久しい。このような効率主義とは決別するべきだと最近の私は強く思うのである。仕事の効率化はともかく、日常生活全体の効率化は人生を劣化させるだけだろうから。
おしゃれはお金と時間の無駄か
仕事と母親の介護の板挟みで余裕がない日々を過ごした時期がある。この時期は日常も効率化せざるをえなかった。その生活が終わった今は時間と金銭に余裕のある生活をしている。
余裕のなかった時期、ファストファッションと中古の服を買っていた。それでも人からは、きちんとした身なりをしているように見えていた。対面的なことだけなら、これで必要十分だった。私自身これで十分、都心へ服を買いに行く時間も無駄。服が好きだったが、おしゃれとも卒業という気持ちになっていた。
しかし余裕ができるようになると再び服にこだわるようになった。当初は人間余裕ができると簡単に堕落するものだと自虐的に思っていた。今となってはそのような自虐は効率主義に染まっていたからだと忌々しい気持ちになる。
私が好んで着るのはテーラーメイドの紳士服だ。お店で生地選びと採寸をして仕上がるまで2ヶ月はかかる。田舎に住んでいるので、お気に入りの仕立屋へ行くのに5時間はかかる。
時間効率で見たら最悪だ。既製品よりお金もかかる。先に書いた通り中古の既製品でも十分おしゃれはできるし、ほとんどの人はその差に気づかない。紳士服に合わせたハンドメイドの紳士靴(革製)も定期的な手入れが必要で、スニーカーと比べて歩きやすくもない。
しかし、自分の体に合わせて作られた服や靴を身につけていると、幸せな気持ちになれるのだ。もうこの歳で今さらおしゃれしてモテようとは思わないし、服は純粋に自分の趣味として楽しんでいる。
忌まわしき効率主義
旅行も好きで時間さえあればどこかへ行くのだが、田舎に住んでいるとどこへ行くのにも時間と交通費がかかる。新幹線の駅がある都心部に引っ越したほうが旅行も効率化できる。
しかし田舎の風景が好きだし、都市部で暮らしていた頃より生活の質は上だと感じられる。旅行で都市部へ遊びに行くのは良いが生活はしたくない。
時間に余裕がなかった頃は、パソコンで仕事している最中、ながら視聴でアニメやドラマを見ていた。ながら視聴でも話の筋は理解できるので、これで十分、動画視聴だけに時間を取るのは時間効率が悪いと思っていた。
しかしそれもやめた。今はながら視聴をせずちゃんと見るようにしている。ちゃんと見たほうが作品を深く味わえるし、そちらの方がいいに決まっている。そもそも、ながら視聴は制作者に失礼だ。
以前は英語音声・日本語字幕でしか視聴できないドラマは見たくても対象から外していた。さすがに仕事しながら字幕を見ることはできないからだ。今となっては本当に馬鹿らしい選別の基準だ。
ながら視聴とはなんと貧しい視聴の仕方だろう!私はしたことがないが、倍速再生視聴も同様だ!
効率主義を広めたもの
このような忌々しい効率主義を広めた原因はなんだろうか。一つはインターネットに大量のコンテンツが溢れるようになったことだろう。それらはスマートフォンでいつでもどこでも視聴可能だ。
月額課金でコンテンツ視聴している人は、単位時間あたりにより多くのコンテンツを視聴しないと、もったいないような感覚に陥りがちだ。(無料のしょうもないショート動画をダラダラ見続けているのは中毒症状であって効率主義とはいえない。)
コンテンツを配信している企業も、わずかな月額で大量のコンテンツを視聴できることをウリにしている。しかし純粋にユーザーのためを思ってそうしているわけではないことに自覚を持つべきだろう。
インターネットでデジタル配信することは、従来の物理的な配信よりもコストが低くできる。より安く、より大量に、より早く、より雇用を少なくして、コストを下げて利益を上げるという資本主義の力学に乗じたものである。
その結果物理的な配信時代よりも、一つの作品を見返して味わう人、映画館へ足を運ぶ過程も含めて映画鑑賞だという人は少なくなった。クリエイターも効率主義に染まったユーザーの変化を織り込んだコンテンツを作るようになっている。この傾向は本当にユーザーを豊かにするものだろうか?
ファストファッションが席巻するようになり、服装はよりシンプルで小綺麗なものが好まれるようになった。装飾性の低いファストファッションの方が、おしゃれであるかのような風潮がある。
ファッションの簡素化も資本主義の力学が働いているのではないか。装飾性の少ない服の方が縫製技術を必要としない。シンプルな服がおしゃれという感覚が広まることは、より賃金の安い国の労働者を使って、より安く、より大量にというビジネスモデルに都合がいい。
AppleのiPhoneがその下地を作ったのかもしれない。スティーブ・ジョブズはゴテゴテとボタンがついたものは美しくないと考える人間だった。ソフトウェアのiOSもフラットでシンプルなデザインへと変貌していった。
iPhoneの影響を受けて、他社の製品もこざっぱりとしたデザインになっていった。このようなデジタルデバイスの変化は、服装も簡素である方が美しいという価値転換にいくらか影響を与えているように思う。
IT長者たちの服へのこだわりのなさも影響しているかもしれない。スティーブ・ジョブズの同じ服を着るというスタイルを踏襲する者もいる。今日何を着るべきかという取るに足らない選択に思考を使うことは無駄。そのように彼らは考えるのだ。
世界を動かすようなプロジェクトに携わり、それに人生を尽くしたいと心の底から思っている人ならそれもいいだろう。実際、彼らにとってそれが最も人生の質を上げることなのだろう。
しかし私のような取るに足らない凡人は、いくら忙しいといっても自分がいなくなれば代わりの誰かがやるか、無くなっても構わないような仕事しかしてない。そのような人がプライベートにまで効率主義を持ち込めば、単に人生が見すぼらしくなるだけではないか。
ていねいな暮らしを取り戻そう
私は一人暮らしながら食事のほとんどは自炊である。家で弁当を食べることはめったにない。黒いプラスチックに敷き詰められた食材を割り箸で食べるという行為に、貧しさを感じるからだ。
母親の面倒で忙しかった時も自炊していた。一時、惣菜の宅配サービスを使っていたことがあった。多少メニューは日替わりしていたが、母親が飽きて嫌がるようになった。忙しいのにまたわがままを・・・と最初は思ったが私も嫌だと思うようになった。
その惣菜も黒いプラスチックの容器に敷き詰められていた。時間のなさを理由に、そのようなものを日々食べ続けることは、家畜になったような気分にさせられるのだ。
だから時間効率は悪いが自炊に戻した。自分のためにも母親のためにも自炊は切るべきことではないと判断した。最近では食事も時間の無駄と切り捨て、完全栄養食だけで済ませる人もいるが、食事が幸福に直結している私にはありえないことだ。
外出するときは、ワイシャツのボタンをとめ、ジャケットを羽織り、靴べらを使って革靴を履く。近所に買い物へ行くときはファストファッションも着るが、Tシャツ、短パンのようなワンマイルファッションでは外出しない。
結局こういうていねいな暮らしが、生活の質を上げ幸福度を上げるのだ。効率主義は暮らしからていねいさをはぎ取り、人生の質を下げていく。その生活に主体的な幸福などあるはずもない。蔓延する効率主義と決別して自分の人生を取り戻そう。