中野信子氏の著書「サイコパス」に、サイコパスは博愛主義化するという話があり私の興味を引いた。共感力が低い私にも心当たりがあるからだ。

中野信子氏は同書の中で「博愛主義者とは、特定少数の人間に対して深い愛着を築けないサイコパスなのかもしれません」と書いている。

私も自分の親以外に深い愛着のような感情を持つことはほとんどない。初対面でも物おじせずに話す方で、旅先で入った飲食店の人に自分から話しかけることも多い。

ただ週末よく会う友達のような相手はいない。そういうことは学生がやるものだと思っている。大人になって自由に動けるのだから、動いて次々新しい人と会って話した方が楽しいと思っている。

人並みに異性に好意を持つこともあるが、やはり長続きしない。振られることが多いから思いを断ち切らなければならないというのもあるが、うまくいった時もすぐ冷めてしまう。

このように私には身近な人間に深い愛着を抱かない傾向が顕著にある。私が最も深い愛着を抱いていた母親が亡くなって、さらにはっきりとそれを自覚した。

その上で不思議なのが私が人道支援団体などに寄附をすることだ。たいした金額ではないにせよ、身近な人に愛着を持てないのに、なぜ直接接点のない人々の救済行為をするのだろうか?

いくつか読んだ本の中から感じることだが、共感力が低いと行動の優先順位が道徳よりも規則正しさが上にくる傾向があるらしいということだ。

私が寄付する理由も世界の不均衡さを少しでも正したいという気持ちが働いているからだ。この文面だけ見ると道徳的に見えるが、困窮している人々に心を痛めて寄付しているかというと言葉に詰まる。

単純に世界の不均衡さに違和感を感じるのだ。日本人は余裕があっても寄付をしない人が多いと言われる。余裕があるにもかかわらず、世界の不均衡さを正そうとしないことに違和感を感じるのだ。

中野信子氏は博愛主義者として知られるマザー・テレサは、側近たちに冷淡だったという報告が複数あると書いている。私にはなんとなくそのマインドセットがわかるような気がする。

共感力が人並み以上にある人は、不可解に不気味に思うかもしれないが、世の中のためになっているのだから別によいのではないかと思う。

SNS時代になって共感の害悪も語られるようになった。共感による救済の対象は親近感を覚える者に限定され、スポットライト的であると言われる。

共感力が低さゆえが、より広範囲にスポットを当てた博愛主義的救済をもたらすのだとして、そのことに何の社会的不具合があるだろうか。