反逆の神話という本の中で、文明社会は本能に反することを強いることだという話が出てくる。その例に痰を吐く行為の変遷について書いてある。

かつては痰を道で吐くことは普通のことだったが、都市化が進み人口密度が増えるにつれ、公共の場で痰を吐くことは不衛生だとみなされるようになった。そしてハンカチや痰壺に吐くようルールが設けられた。そして現在。もはや痰壺などどこにもないし人前でハンカチに痰を吐く人を見ることもない。

今なお狩猟採集生活をしている原住民の人々は、おそらく屋外で好きな時に痰を吐くだろう。文明社会で生きる私たちだって、誰もいない森の中で痰を吐きたくなったら吐くだろう。痰が溜まるのは生理的なことだし、それを吐きたくなったら吐くというのは本能的なことだ。

もはや染み付いているので意識すらしないけれど、文明社会が痰を吐くという本能的行為を公共の場で抑制するよう強いているのだ。そうなる前段階として痰壺があったが、ルールが厳格化して公の場で痰を吐いてはいけなくなった。これは文明化の特質を示すわかりやすい例だと思う。

文明社会ではなるべく多くの他者が不快にならないよう個人にルールを課す。時代と共にそのルールは積み重なっていく。パワハラやセクハラもかつては問題と認識されていなかった。痰を公の場で吐くことが問題とされなかったように。

昨今のLGBTの人たちへの差別を無くそうという運動と認識の高まりもそうである。男性中心社会で生きてきた中高年男性は「冗談すら言えなくなった」と窮屈に感じる人もいる。そういった反発心から地雷を踏む政治家もいる。

人間は異質なものを差別したり不快に思ったり、自分の方が立場が上であるように振る舞ったりする。これらは生存競争のふるいの上に残った人間の本能だ。その本能を抑制するよう強いることで文明社会の秩序は成り立っている。

文明化が進むことで都市化のような物理空間だけでなく、サイバースペースにも多種多様な人々が同じ空間に存在するようになった。今まで以上に多様な人々が集まるようになれば、社会秩序を守るためルールの追加が必要になる。これは文明化の宿命だろう。

このように考えると文明化とストレス社会化は表裏一体のように思える。新しいルールを理解できなかったり、積み重なるルールでストレスが閾値を超えてしまう人が一定数出てしまうのは仕方がないことかもしれない。

公の場で地雷を踏んだりヘイトに走ってで社会から退場させられてしまう人はその典型である。しかしいずれその数は減っていくのだろう。もはや人前で痰を吐く者、障がいのある人を笑いものにする人を見かけないように。彼らは文明社会のふるいの下に落ちていくのだ。

自分以外の他者のためにルールを守ることはストレスが溜まるかもしれないが、同時に他者から不快な思いをさせられたり、不当な扱いを受けたりするリスクを軽減する役割もある。ルールを守るストレスよりそのメリットの方が大きいと思う人が多数派だからこそルールは社会に根付く。

人間の人口が閾値を超え、それを維持しようとした時点で文明化を歩まざるを得ず、ストレス社会化するのは必然だったのではないか。世間はストレスの理由として孤立を第一に挙げたがるが、多様な人々と共存するためのルールの厳格化こそが最も大きな理由に思える。

ちなみに今も狩猟採集生活をしているプナンについて書いた「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」という本によると、彼らの中にうつ病のような精神疾患を抱えている者は見当たらないらしい。きっとルールが我々文明社会のそれよりシンプルだからだろう。