私が死んでも誰も悲しむ人がいないことの気楽さ

母親と同居して面倒を見ていた頃、事故や病気で自分が母親より先に死ぬわけにはいかないという気持ちはあった。もしそのようなことがあったら死の間際に残していく母親のことを悔いるだろうし、母親も悲しんだだろう。

逆に言うと私の死を本当に悲しむ人は母親だけだった。母親がいない今、私が明日死んだところで絶望するほど悲しむ人は誰もいない。広く浅い人付き合いはしているので、「え、あの人死んだの?」くらいに驚く人はいるだろうが。

そのことについて私は寂しいと思うどころか気楽である。仮に明日死ぬようなことがあっても、死の間際、まだ死にたくないとか、死ぬわけにはいかないとか思うことはないだろう。そういう気持ちは、残されて困る人、悲しむ人がいるからこそ抱くのだ。

もちろん私がもっと若ければ、自分が死んで困る人、悲しむ人がいなくても、若くして死にたくないと思っただろう。しかし50歳近くになって自分個人の生存願望だけで生に執着することは薄れたようだ。300年くらい前なら今くらいの年齢で死ぬことは珍しくもなかった、そう考えることができる。

また病気になった時に心底心配したり、死んだら悲しいと思うほどに大切な人もいらない。それはもう母親で十分という気持ちだ。このままうわべの人付き合いをして、死ぬ時は誰にも悲しまれることなくひっそりと消えればいい。そう思える今は心乱されず平穏な日々を過ごせている。今日はのんびり読書をしよう。