資本主義批判は富の格差に集中しがちだが、格差自体は資本主義以前の時代にもあったことだ。人類が定住と農耕を始め、子孫に富を残すようになったことが格差の起源と言われる。また中世の貴族社会の格差は一世代では覆りようがない固定的なものだった。

それに比べると資本主義は度々起きる技術革新によって富がシャッフルする分、まだ格差は流動的ではないだろうか。先進国の低迷と新興国の目覚ましい経済成長は、インターネットその他の技術革新で富が世界に分散した結果とも言えるだろう。

人類史や世界規模の粒度で個人がどうこう言っても仕方がない。それより個人の人生という粒度で資本主義の問題を捉え直してはどうか。そうすると問題の本質は格差というよりも、技術革新によって市場で求められる職能が変化することではないだろうか。

絶え間ない変化を是とする資本主義社会では、近い将来自分の職能に市場価値がなくなるリスクがつきまとう。それゆえ転落の不安を抱えなければならない。これこそが個人の粒度での切迫した問題であろう。

さらに資本主義は生産効率を追求するという性質もある。全体の生産性を高めるためには労働者の職能は分野を特化した方がいい。専門性の高い個人の集合が全体の生産性を高めさせる。逆にいうと資本主義下の賃金労働者は普通に働いていたら限られた職能しか得られないということである。

資本主義は技術革新によって既存の職能を陳腐化させる性質を持つにもかかわらず、賃金労働者は限られた職能しか与えられない。ゆえに職を失う不安を抱えて生きなくてはならない。これこそ個人の粒度で見た時の資本主義の問題ではないだろうか。

とはいえ、人類が狩猟生活や素朴な農耕生活を送っていた時代も安定して食糧にありつけたわけではない。気まぐれな自然相手に試行錯誤し生き延びようとしてきた。一億総中流のような社会も中世のような階級が固定された社会も、長い人類史で見たら特異な環境だったのではないか。

人間は変化する環境の中で生き延びなければならない。その環境が自然から市場に変わっただけ。そう割り切るしかないのではないか。今の職能に甘んじることなく環境の変化を見据え、新たな職能を身につけるなりして適応するしかない。革命と無縁の個人ができる現実的な行動はそれくらいだ。