仏教は無我論、色即是空、般若心経など、自我など存在しないし、目に映る世界も認識・分別することによってあると錯覚しているだけで、実際は無いと説いている。

自我も世界も無いという境地こそが悟りであるが、そのような境地に到達した者たち、すなわち仏陀は極楽浄土の存在を信じただろうか?

極楽浄土は悟りを得た者が、死後行くことができ、一切の苦がない場所だという。現世で悟りを得られなかった者は輪廻して再び苦に満ちた現世に生まれてくるという。

仏陀とはお釈迦様だけに限らず、悟りを得た者全てを指すが、お釈迦様を例に考えてみたい。

お釈迦様は死んだらどうなるのかと考え始めたら止まらなくなり、死の恐怖から逃れるための悟りを得ることが、出家のきっかけだったとされる。

つまりお釈迦様の悟りは、死の恐怖を克服するものでもあったはずだ。全て無いという境地は、どう死の恐怖を克服したのだろうか。

ありもしない自我があると考える故に、死後の世界もあると考える。だから死んだら自分はどうなるのかと悩む。それらが全部無いのだったら悩む意味が無くなるし、そういう執着が死の恐怖の原因であった。

と、お釈迦様は悟ったのだと思う。さらに死ぬことは認識するということが無くなるのだから、死とは自我も世界も苦も全て無くなると考えたのでは無いだろうか。

全て無に帰すことが苦からの解放であり、仏教における極楽浄土とは物理的世界ではなく無のことを指しているのではないだろうか。

お釈迦様および仏僧は、相手が悟りを得られるなら嘘も方便を良しとするところがある。物理的世界であるかのような極楽浄土も方便のような気がする。(極楽浄土という概念はお釈迦様が説いたわけではないようだが)

悟りを開けなかった者は輪廻して再び苦のある現世に生まれてくるというが、これも方便のような気がする。自我を信じるから死後の世界も輪廻も信じるわけで、それに囚われている限り、生きている間、苦から逃れられない。これが本来意味するところではないだろうか。

親鸞の阿弥陀仏に感謝しておけば、最後は誰でも極楽浄土に行けるんだよというのも、そういった方便なのかもしれない。死はあらゆるものを無に帰して苦から解放する救いなのだ。