浄土真宗の教義を読んでいて、一神教に似ている気がすると思って検索してみると、やっぱりそのような言説は昔からあるようだ。

浄土真宗は阿弥陀仏の救済を信じて南無阿弥陀仏と唱えれば誰もが極楽浄土へ行けるとする。まさに信じる者は救われるという信仰形態である。

浄土真宗のお寺ではお守りや御朱印を配らない。救済の手を差し伸べる者は阿弥陀仏だけであり、その救済は絶対的なものと本気で信じるなら、他のものに救いを求めてはならないのだ。

自分を救済してくれる者を阿弥陀仏一点に絞り信じ抜くことで、現世での迷いが晴れるという効果もあるだろう。

一神教の信者の中には、ことあるごとに「神様が見てくれているから大丈夫!」と言って、スーパーポジティブな人がいる、という話をTwitterで見たことがある。これは唯一神一点ばりで心底救いを信じているからだろう。

ちなみに浄土真宗の信仰が阿弥陀仏頼みの他力本願だからといって、何でもかんでも阿弥陀仏任せにするということではない。

阿弥陀仏頼みにするのは、あくまで極楽浄土へ導いてもらうことである。現世の問題に自分で向き合う姿勢は、浄土真宗のお寺のページにある説法などからも見てとれる。

問題に向き合いつつも煩悩に囚われてしまう自分を省みつつ、「凡夫はまたやらかしました。こんな私でも救ってくださる阿弥陀仏様、ありがとうございます。南無阿弥陀仏」という姿勢であるべきようである。

これはキリスト教徒が神の前で懺悔しつつ「迷える子羊をお救いください、アーメン」というのに似ている。

検索していたらある記事に、アメリカ人に信仰は何かと問われて、浄土真宗ですと言ったら、クリスチャン・ブディストですか?と言われたという話を見つけた(笑)

他の宗派と一線を画す日本最大の仏教宗派である浄土真宗の異彩さ