村田沙耶香氏の「タダイマトビラ」を読みました。同著者の「コンビニ人間」「しろいろの街の、その骨の体温の」も読みましたが、本作品も世間の常識に対する皮肉的な描写が根底になっています。

ややネタバレになるので純粋に読みたい人は、これ以降は読まないでください。

最後のトンデモ展開について賛否あるのは当然だと思います(笑)。これは何を表現したかったのか。個人的には以下のようなことかなと思います。

世間が定義する家族のあり方だけでなく、経済自立できる状態で結婚したいという瑞稀、性や人が苦手ながら薄くでも人と繋がる場を設ける渚の価値観も、何らか文明的な固定観念が根底にあって、いずれもヒトという種を保存する本能をこじらせただけでしょう、といったことなのではないかと思う。

もちろん恵奈がそのことに気づき覚醒しても、それまでいた世界が本来あるべき世界に変化し、固定観念に取り残された恵奈の家族が、その世界に吸い込まれていく、といったトンデモ展開は現実には起こり得ない。なので現実的に考えるなら、恵奈の精神が崩壊してしまったと考える方が良さそうではある。

しかしその辺の解釈は作者にとってどうでもいい事なのだと思う。物語のちゃぶ台を返すことで、私たちが社会的集団幻想の中で生きていることを、読者に思い知らせることができればよいのだろうから。

最後の方の恵奈のセリフにあるように、進化論的な観点からすると、私たちの家族や子供に対する感情は種の保存に有利な方向に自然選択された結果に過ぎない。

サルはヒト(ホモ・サピエンス)と同じ霊長類にカテゴライズされ祖先は同じとされる。ニホンザルは群れで行動する。基本的に母親が子育てをするが、時にはその母親、祖母が手伝うこともあるという。死んだ子供をミイラになるまで連れ歩くこともあるらしい。サルも子への愛情があることを示す行為である。

今なお狩猟採集生活を送る原住民の生活様式は、私が本で読んだ限り、一夫一妻で、父親が狩猟し、母親が子育てと農作業をするのが基本のようである。定住という生活様式が根付く前、原始の人類はニホンザルと同じような形態で過ごしていたのかもしれない。

いずれにせよ、母親が子供を可愛いと思い、子育てをすることは本能であり、文化的な後付けではない。しかし他の生物同様にヒトもまた多様な形質を持って生まれてくる。特定の要因で絶滅しないために必要な形質である。

ニホンザルの母の子供の距離感も個体差があるらしい。ただ子育て方法について難癖をつける者はいないだろう。育った群れを離れた後、孤独に過ごすオスザルもいるらしい。ヒトでいうところの社会不適合者なのかもしれない。とはいえ他のサルに群れに合流することを強制されることはないだろう。彼は好きでそうしているのだろうし、食い扶持を確保して自立して生きられるなら問題ないのだ。

狩猟採集民は一夫一妻で定住しているが、所有権や相続の概念が希薄で、家柄や血筋を重んじるという価値観もあまり持ち合わせていないようである。私たちの社会よりシンプルであるゆえか、うつ病を患って自殺するような者はいないらしい。

ルソーの社会契約論では、ヒトは生命の安全を得るために社会に自らの自由をいくらか差し出す契約を結んでいるという見方をする。現代社会を生きる私たちの多くは、危険生物と共生する狩猟採集民より数十年長く生きる。

ヒトは長寿と引き換えに本能に反する不自然な生活形態を余儀なくされるようになった。物心ついた時から学校に通うことを強制され、自然の中で生きる道は閉ざされる。私たち現代人は現代社会に適合するよう強制的に社会契約を結ばされているとも言える。その契約は少なからず人間の精神を締め上げる。

最近は多様性の時代、みんな違っていい、などと言われるが、そもそもヒトは種の保存のために多様に産まれてくるものなのである。と、いつも私が思うことを改めて思い起こさせるラストでした。

しかし本の表紙絵と内容のギャップは狙ってやっているとしか思えない(笑)