事業を売却して大金が入ってきた。働かなくても優雅に暮らせる自由を得た。けどその生活に飽きてしまって、新しい事業をすることになった。やっぱり人の役になっている感覚が欲しかった。

といった成功者の話を見かける。けどもし私が一切働かなくてもよいくらいの大金を手にしたら、自由な生活を飽きることなく満喫できると思う。

本も映画もアニメも旅先も生涯かけても読み尽くせない、見尽くせない、行き尽くせないくらいにある。それらを消費し続ける生活に飽きるということは考えられない。

そういうふうに思えるのは、私が他者との深い関わりを持たない人間だからだと思う。他者との深い関わりはストレスになる。利益を追求する仕事での人との関わりはその最たる例だ。

もちろん人と一切会話しないのもストレスは溜まる。でもそれは旅先での一期一会のような、その場限りの楽しさだけで満たされるのだ。

そもそも事業を通じて人の役に立つという感覚を私は抱くことができない。慈善事業は別として、資本主義経済における企業とは利潤を追求する存在であり、企業間には競争があり、自社の成功は他社の敗北であり、技術革新は既存の仕事の喪失、失業を生み出すものである。

それでも全体で見たら前進しているといった人類の最大公約数的幸福のような論を述べる人もいるが、これも私は信じることができない。進歩主義という共同幻想によって、世の中が便利になれば人々の幸福度は上がると勘違いしているだけのように思うからだ。

今なお狩猟採集生活を送る原住民について書かれた本を読むと、彼らにはうつ病のような精神疾患を抱える者はおらず、みな幸せそうに見えるとある。過酷な自然環境の中で生活しているにも関わらずだ。

事業を立ち上げては成長させて売るを繰り返すことに喜びを感じる人は、資金を投じてリスクを味わうというある種のギャンブル中毒にかかっているのではないかと思う。もし私に余るほどのお金があるなら素直に慈善事業に寄付するだろう。

あとは自分個人が自由を満喫できるだけのお金を残して、人や社会と距離を置き、本、映画、アニメ、ゲームなどのコンテンツを消費しながら旅をする。そんな穏やかな余生を送るだろう。