昨今は監視社会化を危惧する声もあり、オーウェルの1984は予言書として改めて注目されているようだ。しかしあのような監視社会は、今の世界線の延長線上には訪れないと思う。
1984で描かれている監視社会は、現在のテクノロジー社会から見れば時代遅れなものである。家中に監視カメラがあり、中央政府がそれを人力で監視しているといったもので、古臭く現実味がない。
今現在危惧されているのは、民間の企業がユーザーの行動を蓄積・解析し、利益を増大させるための行動をユーザーに促すことだ。そして、このような企業は複数あり、互いにしのぎを削っている。
もしユーザーの多くが嫌悪するような形で企業が個人情報を利用するなら、ユーザーはそのサービスを使わなくなっていく。乗り換え先の類似サービスはあるだろうし、なければどこかの企業が類似のサービスを提供するだろう。
また現在は多くの人がスマートフォンを持ち、いつどこででもカメラで撮影できる状況にある。公の場で社会的に望ましくない行動を取ると、四方八方からスマートフォンで撮影され、SNSにアップロードされ、炎上し、半永久的にウェブ上に残り、人生に多大な損害を受けることになる。
今の監視社会化は、1984のような中央政府の監視によるものではない。監視の主体がないことから液状化監視社会と言われるものだ。権力者が権力を行使して築いたものではなく、人々の消費行動の末に訪れた監視社会である。
自分達の行動が企業に監視・解析されていることの気持ち悪さより、利便性の方が上回るから人々はサービスを使う。またそれらのサービスを使うために必要だからスマートフォンを所有する。
1984のような監視社会と現在の監視社会は全く別の生態系に属するものである。だから今の延長線上に1984のような監視社会の到来はないと思う。
色々な社会問題はあるとはいえ、歴史的に見れば安全で、権利が保障され、人並みの運があれば80年は生きるであろう世界に私たちは生まれ落ちた。科学の発展により信仰は迷信となり、生きる意味を自ら見出し長い寿命を生きる必要がある。
さもなくば共同幻想の中で意味付けされた価値に縛られ、生の高揚を感じることがほとんどないまま末人として生きることになる。ニーチェの予言どおりになろうとしていることこそが現実の問題ではないだろうか。