隠匿的読書生活

囚われがちの脳を読書で解放

1984年を読んで。個人の自由を守るものは何か

オーウェルの小説・1984年は監視社会の恐怖を描いた作品として有名である。テクノロジー監視社会化が懸念される昨今、この小説のようになってきた、予言本だ、という論調を目にすることがある。気になって私も読んでみたが、現代の監視社会を考える材料にはならないと感じた。

※私が読んだのは、この「一九八四年 新訳版」だが、以降漢字ではなく1984年と書く。

まず監視の仕組みが現代で危惧されているものと隔たりを感じる。テレスクリーンによって、24時間、盗撮、盗聴されているという程度の設定で、監視のテクノロジーについて深掘りする描写はない。昨今懸念されているのは、このような類の監視ではない。

ウェブサービスを提供する企業は、個人の行動を集積し、A Iで分析し、その人の趣向にあったコンテンツやフォローすべきユーザーを「おすすめ」する。その目的は言論統制ではなく、サービスの利用時間を長くして収益を上げることが目的である。

ユーザーは「おすすめ」により、趣向に偏った情報を受け取るようになり、似たような思想の者同士でフォロー関係になる。サービスは広告配信する際、その広告と親和性の高いユーザーに配信する。広告主はその仕組みを利用し、心理誘導しやすいユーザーを対象に偽情報を流すこともできる。

このように民間企業が個人の行動を監視し、お金に転換する過程で生じる分断、怒りや憎しみの増幅。こういったことが現代の監視社会化で危惧されていることだろう。中央政府による国民監視とは異なり、監視の主体(企業)が複数いるというのが特徴だ。

中国は中央政府による情報検閲が行われているし、プライバシー意識の高い欧米諸国よりデジタル監視が進んでいると言われる。犯罪など望ましくない行動をするとスコアが減点され、スコアが基準値を下回ると生活に制限がかかるようにもなっている。

中国市民の中には、そのような監視によって治安が向上したことを歓迎する人も多いという。この件は「幸福な監視国家・中国」に詳しい。

中国の監視社会を賛美する内容ではなく、中国在住の日本人が一歩引いた視点で書いている。1984年よりは、こちらの方がデジタル監視社会の実態を知る上で読む価値があるだろう。

政府が望ましいとする行動を人々に促すことは、犯罪が減るという良い面ばかりでなく、無意識に国民が国家権力に従うようになるという危惧もある。いずれにせよ、私たちが直面しているのは、テレスクリーンのような物理的監視があり、抑圧や疑問を感じて生きるという1984年の監視社会とは異なるものだ。

インターネットやAIを用いた高度で巧妙な現代の監視の仕組みからすると、1984年の監視システムは前時代的でお粗末なものに思えてしまう。この小説が刊行されたのは1949年だが、著者が未来のテクノロジーを想像できなかったというより、そもそも監視のシステムについて重きを置いて書いていないと思うのだ。

常時監視されているという設定は、主人公の監視を逃れた逸脱行動が、いつかバレて捕まることを想像させ、話に緊張感を与えるために設けられているだけのように見える。オーウェルが主として描きたかったことは別にあると思う。

それは全体主義の恐怖と、それがいかにして生まれ、維持されるかについてだろう。それを著実に示すのは、物語後半、党の幹部・オブライエンが主人公・ウィンストンを再教育のために拷問にかけるシーンにある。

オブライエンはどうして我々は権力を欲するのかとウィンストンに問う。彼は「あなた方は人間に自らを律するだけの能力を信じていないからだ」と答えるが、オブライエンは馬鹿なことを言うなとこう言うのだ。

ナチス・ドイツロシア共産党は方法論の上ではわれわれに極めて近かったが、自分たちの動機を認めるだけの勇気をついに持ち得なかった。

かれらは自らを偽ってこう述べ立てた➖いやあるいは本当に信じ込んでいたのかもしれない➖自分たちは止むをえず、そして暫定的に権力を握ったのであり、その少し先には人間が自由で平等に暮らせる楽園が待っているのだ、と。

われわれはそんなことはしない。権力を放棄するつもりで権力を握るものなど一人としていないことをわれわれは知っている。権力は手段ではない。目的なのだ。

迫害の目的は迫害、拷問の目的は拷問、権力の目的は権力、それ以外に何がある。

1984年を刊行した当初オーウェルは、この小説についてこのように語ったらしい。

わたしの最新の小説は、社会主義イギリス労働党(私はその支持者です)を攻撃することを意図したのでは決してありません。しかし共産主義ファシズムですでに部分的に実現した(…)倒錯を暴露することを意図したものです(…)。小説の舞台はイギリスに置かれていますが、これは英語を話す民族が生来的に他より優れているわけではないこと、全体主義はもし戦わなければどこにおいても勝利しうることを強調するためです。

1984年 (小説) - Wikipedia

この中で大事なことは「どこにおいても」という部分だろう。オーウェルは政治的な主義主張に関わらず、どこにでも全体主義は発生しうると言いたかったのだ。

ナチス・ドイツも旧・日本帝国も反共産主義の立場だったが、ファシズムと認識されている。旧・日本帝国時代、小林多喜二によって資本主義批判の蟹工船が発刊された。小林多喜二は後に共産党員となり、最期は密告によって捕まり警察の手で拷問死した。

社会主義共産主義に傾倒した国家では革命の名の下に虐殺が行われ、冷戦時代は民衆の監視、弾圧も行われた。社会変革を目的とした革命は、権力の維持にすり替わる。そもそも革命家たちは権力を欲しただけではないかという疑問も拭えない。

こういった現実に起きたことを風刺して描いた世界観、それが1984年のディストピアなのだ。この小説はテクノロジー監視社会の預言書ではなく、全体主義の寓話として読むべきだろう。

現代の監視社会は分断をもたらすもので、全体主義とは真逆の流れを作っている。監視抜きにしてもインターネットの情報洪水は、人々に多様な思想をもたらしている。現代において国家規模の全体主義は起きにくくなっていると思う。

よって1984年は現代監視社会を考える材料にはならないと思うが、それでも娯楽小説として面白いし、現代に通じる風刺もあると思う。物語後半、ディストピアの実態が暴かれるが、軍事力が拮抗する大国間の絶え間ない戦争、恒常的な破壊、それが富の増加を防ぎ、資本主義の芽を摘むという設定は面白い。

富が増加しないことで、人々は一昔前より貧しい生活をしており、その生活が向上する余地もない。また党員の仕事は、なんら市場価値を生み出さない情報の隠蔽、改竄、取り締まりのような党の権力を維持するためだけのものである。

かたや党から動物とみなされている労働階級=プロールは、ほとんど監視対象になっていない。彼らの間では市場経済がまだ存在している。主人公は、いつか彼らが党の体制に勝利するだろうと言う。このような党員とプロールの対比は何を示唆しているのだろうか。

とかく監視社会以上に批判の槍玉に上がるのが資本主義である。しかし資本主義のアンチテーゼだった共産主義社会主義でも集権化、政治エリートによる富の偏在、全体主義が起きた。むしろ自由市場経済を否定した社会の方が富の移動が起きにくい分、権力が固定されやすい面もあるだろう。

1984年ではそのような世界が描かれている。資本主義が敗北し、3つの強国によって世界は分断されているが、どの国も同じような監視体制が敷かれている。その体制は絶え間ない戦争によって維持されているのだ。

オーウェル自身は民主社会主義者を自称したようだ。民主社会主義者についてWikipediaにはこうある。

民主社会主義者は、資本主義は自由、平等、連帯という価値観と本質的に相容れないものであると主張している。

民主社会主義 - Wikipedia

オーウェルが資本主義にどの程度否定的だったのかわからないが、1984年は資本主義が敗北した後にディストピアが訪れたかのように描いている。プロールの描写からも少なくとも市場経済については否定的ではなかったように感じる。

自由市場経済が個人と国家権力の間に線引きをし、個人の自由を保護する側面もあると思うが、オーウェルもそこは同じように考えていたのかもしれない。1984年の読者もこの世界でならプロールに生まれた方がマシだと考えるのではないだろうか。意図的にそのように描かれているように思う。

1984年にあるような全体主義的監視社会は現代では現実味がないが、アルゴリズムで集められた似た者同士の島宇宙はサイバー空間に点在している。その島宇宙に限定した思想統一、改竄情報(フェイクニュース陰謀論)の流布はある。

島宇宙で影響力のある人間は、敵を設定し島宇宙の住民を煽る。島宇宙の住民はそれに歓喜し、敵に罵声を浴びせる。Twitterでお馴染みの光景だ。1984年で戦争の報道を見た民衆がビッグブラザー歓喜し、ゴールドスタインに罵声を浴びせる場面と重なる。

社会不満から目を逸らさせるガス抜きが、個人の主体的な思考を阻むのだ。現代の島宇宙の住民は、自由な思想を持てる時代にいながら、偏った思考に染まり、主体的な思考を失い、現実を誤認し、やがて時代から取り残されていくだろう。

そもそも島宇宙で影響力のある人間は、個人的利益や承認欲のために、世直しを訴え人々を導くようなふりをしているだけかもしれないのだ。権力の目的は権力という言葉が当てはまる。どんな時代であれ、個人の自由を守るためには自立的な人間であらねばならない。それこそ1984年が現代に与えてくれる教訓かもしれない。

1984年のスローガン「無知は力なり」は、哲学者フランシス・ベーコンの「知は力なり」の逆意的造語である。「隷属は自由なり」も隷属を逆意にすると「自立は自由なり」となる。知が自立の力となり個人の自由を保障する。これがオーウェルの真のメッセージではないだろうか。