隠匿的読書生活

囚われがちの脳を読書で解放

ノルウェイの森は死とセックスだけじゃない

今さらながらノルウェイの森を読んだ。20年くらい前に海辺のカフカを途中で挫折して以来、苦手意識を持ってしまい、村上春樹の小説を読むことはなかった。先日、図書館でふと目に留まり、有名な作品だから読んで見ようと手に取った。いざ読んでみたら期待以上で内容に驚きもあった。

簡易な言葉、良きメタファー、効果的なアレゴリー

全体的には主人公・ワタナベの淡々とした語りが占め、長編ながらそれほど話の浮き沈みはなく、大枠では予測できる話の流れだった。しかし登場人物の死については、唐突に話の中に出てくるのが特徴的に思えた。まず冒頭、ワタナベの昔話が淡々と続いているかと思えば、急に親友キズキの死の話が出てくるのは驚かされた。

緑の父親が海外に行っておらず死にかけている話も、ワタナベと緑の何気ない会話からいきなり出てきて、そのまま病院に行く話になる。後半、ページ数が残り少なくなってきたので、そろそろと予測はしていたが、直子の死も割合唐突である。こういった仕掛けのおかげか淡々とした語り口調ながら飽きずに読めた。

事前に読んだある本の中で、村上春樹は、簡易な言葉、良きメタファー(直喩、暗喩、比喩)、効果的なアレゴリー(寓意)の3つを念頭に書いているとあった。私がこの小説を楽しく読めたのは、それらに注目しながら読み進められたからというのもある。

海辺のカフカで苦手意識を持っていた村上春樹の小説だが、この小説はスラスラ読めて拍子抜けしてしまった。比喩表現も自分じゃまず思いつかないなあと思えるものがあり、それもおもしろかった。

緑の父親に会った時のワタナベの台詞「乾いた唇のまわりにはまるで雑草のようにまばらに無精髭が生えていた」は死にかけている人間をイメージできるし、永沢のワタナベを評する時の「遅い目の朝飯と早い目の昼飯のちがいくらいしかないんだ」「ただ呼び方が違うんだ」という台詞は、対極に見えるけど似たもの同士という表現をするのに的確なものを感じた。

特にアレゴリーに関しては、30年以上前の作品ということを念頭に置いて読むと、若者を取り巻く環境や心理は、当時も今もあまり変わっていないのだなあと思える。この小説は世界中で読まれているのだから、おそらく国境をまたいでもそうなのだろう。

寮の共用電話や手紙で連絡を取り合う、学生運動など、昭和を思わす描写もあるが、そういった時代設定は物語に大きな影響は与えない。対して登場人物の台詞を通じた社会に対する著者の視点は、現代社会にも当てはまるような内容になっている。

変わっていく緑の印象

緑に対する私の最初の頃の印象は、頭が良くなく、性にあけっぴろげで、いちいち人を観察する態度もイライラさせられる、というものだった。実際こういうタイプの人は現実にもいるし、私が嫌いなタイプである。しかし、上巻でそういった印象を抱かせることは、下巻で印象を変えるための布石だったと思い知る。

緑は大学で所属していたクラブの政治色のある学生をこき下ろす。彼らは革命とかえらそうな言葉を振りかざし、お前は何も考えてないと言うが「四年生になったら髪を短くして大企業に就職していく」「自分に知らないことがあるのを怖くて、みんな同じ本を読んで、同じような言葉をふりまわしている」「彼らはインチキだ」とぶちまける。

この場面より前に大学でストライキが起きて休校になる場面がある。ワタナベがその後、荒れた大学を想像して行ってみると以前と変わっておらず、しかも講義の前列に真っ先に座っているのが、ストライキで前面に立っていた生徒だった。彼らは大学解体などと言いながら単位を落として就職に響くことを恐れている。ワタナベはその有り様をみて腹を立てる。

その場面を思い出すことで緑の台詞は痛快さを増す。それで彼女に好感を持つようになるのだが、その後の展開はそれだけにとどまらない。緑は父親に偉そうな態度だった税務署員の話を持ち出し、革命なんて起きたって彼らの態度は変わらない。庶民はろくでもないところでぼちぼちと生きていくしかないのだと言う。

その台詞の後、緑が父親の看病をする場面になる。彼女は母親も祖父も祖母も看病してきたと言う。緑は目の前の泥臭い現実に向き合いながら、それを表立って見せずに強く生きているのだ。彼女の状況から来る現実主義には、私も親の介護を経験したから共感を持てた。私の場合、40代になってからの話だが。

緑は単に無知なのではなく、インテリぶった学生の言葉に現実感が持てないのだ。彼らは緑のような苦労はしていないだろう。余裕があるから現実感のない革命について語る暇があるのだ。目の前の現実を生きる緑と相対して、意識高い系の学生を薄っぺらく見せようとするのは、著者が学生時代に見て感じたことの風刺だと思う。

現代にも通じる社会風刺

ワタナベの唯一の男の友人、と言っていいかわからない存在の永沢は、今で言うところのハイスペック男子だ。頭も容姿もよくカリスマ性があり、親が金持ちなど持って生まれたものもあるが、努力も怠らない人間である。就職が決まった後もスペイン語を勉強する様子が描かれる。

永沢はすでに複数の外国語を話せるようになっているが、彼曰く「こういったことは努力なくしてできるか?」「なぜ世間の連中は努力もせず不平ばかり言うのか」と言う。また「不公平な社会は能力を発揮できる社会でもある」「あくせく働くのは努力ではなくただの労働だ」とも言う。彼は学生運動には言及すらしない。

ワタナベはあくせく働いた末に死にかけている緑の父親を思い浮かべ、彼は忙しすぎて外国語の勉強を始めることなど思いつきもしなかっただろうと考える。そしてワタナベの親友だったキズキは自殺し、恋人の直子は精神を病み療養中だ。自分含め弱さを持つ人間を知るワタナベは、永沢のことを浮世離れした人間のように冷めた目で見ている。

私も親の介護の日々の中で目の前の現実に向き合わなければいけなかったし、緑に共感できるところはある。仕事と介護を両立できたのは、凡人ながら努力を積み重ね、在宅ワークでもそれなりの収入を得られるようになったからで、永沢の言い分も共感できる。とはいえ、勉強することの見返りを経験的に得られない人がいることも理屈ではわかる。だからワタナベの視点も理解できる。

30年以上前の小説だが、登場人物を通じた社会風刺は現代にも通じる。うつ死、ヤングケアラー、意識高い系、ハイスペなど現代のスラングがぴったり当てはまる要素がちりばめられている。さらにはこの時代に、レイコの言葉を通じて「日常に潜むサイコパス」まで的確に描写してあるのには驚きである。

この小説の発刊が1987年、羊たちの沈黙の公開が1991年。2000年くらいまでは、サイコパスと言えばハンニバル・レクターのような知能のレベルは高いが、異質な価値観と猟奇的な殺人衝動を持つ人間をイメージする人が多かったのではないだろうか?

レイコの生活を崩壊させたサイコパス中学生は「一見魅力的だが、人心掌握に長け他人を思うままに操る」という部分は従来認識されていたサイコパスと同様だが、猟奇殺人などは犯さず周囲に馴染んで日常生活を送っている設定だ。

とはいえ、彼女は自分の利益しか考えておらず、自分の優れた特性はそのために使って生きている。このような日常に潜むサイコパスは、最近になるまでほとんど認識されていなかったように思う。それが30年以上前の小説に描かれているのは驚きだった。

ワタナベと永沢の奇妙な友情

ワタナベと永沢の奇妙な友情には、どこか惹かれるものがある。永沢はワタナベを「自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか。そういうことにしか興味を持てないから、自分と他人を切り離してものを考えることができる」と評し、そこが似ているからとワタナベに好感を持っている。

実際はワタナベ自身が言うように、そこまでストイックではなく、想いがある人間には理解されたいと思っているが、それ以外の人間には理解されなくてもいいとも思っている。こういうワタナベや永沢の他人との距離感は、自分と重なるものがあり親近感を持てる。

ワタナベと永沢が互いに寮を出て行く時、二人は握手して分かれるが、その時の「彼は新しい世界へ、僕は自分のぬかるみへと戻っていった」というワタナベの台詞には刺さるものがある。そして永沢はワタナベに「自分に同情するな」とアドバイスを残す。

ワタナベは直子の病状が悪化した手紙を受け取り、しばらくふさぎ込む生活を送るが、その彼を再び立ち上がらせるきっかけとなるのが、この「自分に同情するな」という言葉なのだ。孤独以外に共通項はなく、深く分かり合えるわけでもない二人の友情には、なんともいえない味がある。

ワタナベは永沢の元カノ・ハツミが自殺したことを、数年後の永沢の手紙で知った時、その手紙を破り捨て二度と永沢に手紙を書かなかったと言う。この場面を読んだ時点では、ハツミのことを大切せず、今さら哀しく辛いと言う永沢への怒りのようにも思えたが、改めて考えるとそうでもなさそうだ。

ハツミが自殺したのは永沢と別れて2年後、結婚してさらに2年後とあり、永沢が直接の原因ではないはずだ。またワタナベは「人生のある段階に来ると、ふと思いついたみたいに自らの生命を絶った」と表現しており、自殺する人はその時がきたらするものだと言っているように取れる。この感覚は直子とキズキの死によって得た無力感からくるのだろう。

そう考えるとワタナベの「永沢さんにも僕にも彼女を救うことはできなかった」と言う表現もしっくりくる。手紙を破り捨てたのは、永沢への怒りというより無力感から来る怒りだったのではないか。永沢に二度と手紙を書かなかったのは、その無力感を思い出す関係を切りたかったからかもしれない。こういう形の二人の決別もなんともいえない余韻を残す。

死とセックスだけじゃない

ワタナベがレイコと寝てしまうことに違和感を感じる人もいると思うが、個人的には不自然な感じはしなかった。レイコも精神的な病を抱える人ではあるが、達観したところがあり人を包み込むような魅力がある。若く孤独なワタナベがレイコに対して母性と性が入り混じったような魅力を感じるのは自然なことに思える。男性ならわかる人も多いのではないだろうか。

この小説のレビューを見ると、当然おもしろくないという人もいる。おもしろいと思えるかどうかは、登場人物に共感できることがどれほどあるかだろう。それがあまりないとレビューにもあるように、ただの官能小説に思えてしまうだろう。私は性的な描写は割とどうでもよく感じて読み飛ばし気味だった。

村上春樹はこの小説が10万部売れている時は人々に愛され支持されていると感じたが、何百万部売れてからは自分は憎まれ嫌われていると感じるようになったと言ったそうだ。またあの小説は「セックスと死のことしか書いていない」と言ったこともあるらしい。

wondertrip.jp

この小説が有名になってターゲットとしていない層にも読まれるようになり、そういう人には死とセックスしか印象に残らないだろうと、皮肉を込めて村上春樹はそのように言ったのかもしれない。私にとっては決してそれだけの小説ではなかった。