隠匿的読書生活

囚われがちの脳を読書で解放

スミヤキストQの冒険を読みました

ある日、図書館へ行くと、「悪のしくみ」という本が目についた。副題に中学生までに読んでおきたい哲学とある。内容は著名な作家たちが悪を題材として書いた短編集だった。悪は貧しさなど環境が生み出すとか、この話で真の悪は誰なのかとか、立場によって悪は正義になりうるとか、だいたいはそういう内容だった。

作家たちは一昔前に活躍した人たちで、今読んで新しい視点を得られる話はなかった。そう思うのは、彼らが残した作品が後世に影響を与え、それを模倣した作品が世にあふれているからだろうけど。ただ、印象に残った話もあった。それがスミヤキストQの冒険の著者・倉持由美子氏の「子供たちが豚殺しを真似した話」である。

これは同名のグリム童話の話をもじった話になっているが、ごっこ遊びから殺人につながるいじめ、大人の責任のなすりつけ、議論の末に元の話から脱線した教訓、さらに時代を経てその教訓すらも形骸化してしまう内容で、とても童話的な話ではない。それがブラックジョークのように思えて、クスッと笑わせるものがあった。

それで、この人の小説・スミヤキストQの冒険を読んでみようと思ったのだ。内容は、スミヤキストという政治結社に属する青年Qが、孤島にある感化院(今で言う児童自立支援施設)に潜入し、その実情調査と革命を実行するというものである。

Qはスミヤキストの崇高な思想=スミヤキズムの実践者であると思い込み、それを自尊心の拠り所としている。また、その崇高な思想を説くことを使命とも考えている。しかし、スミヤキストであることを公言することは、相手に警戒心を抱かせる。だからそれを伏せつつ、スミヤキズムを説かねばならないとも考えている。

と、自分を何か重要な使命を背負った人間であるかのようにQは思っているが、実際はたいしたのない凡庸な人間である。現代的にいうと中二病というのがふさわしいかもしれない。この小説が描かれた時代に中二病というスラングはなかったが、いつの時代もこのような人間がいることを知ることができる。

たとえば、裸で生活させられている感化院の少女たちを、崇高なるスミヤキストの立場からけしからんと思いつつも欲情し、罪悪感に駆られながら自慰行為にふける俗物的な面もある。また革命革命と言いつつ、ろくに行動に移すこともできない臆病者でもある。

崇高な理想や教訓も、しょせんはエリートを自認する愚かな人間の虚構。それは、私が最初に読んだ「子供たちが豚殺しを真似した話」でも感じられたことである。この類の風刺は、著者の他の作品でも見られるらしく、それを得意としていたようだ。

私は、この小説が書かれた時代背景をあまり知らずに、先入観なく読んだので、ただの娯楽小説として読むことができた。しかし、この作品が発表された当初は、共産党を揶揄していると非難を受けたそうだ。

そのことの反論として、のちに書かれたあとがきに、「自分の限られた知識と経験を動員して『これは何を意味するか』と解釈に奔走するのは、『旧人類インテリ』の悪い癖です」と切り捨てている。そして、若い世代の方がこの小説を楽しんでくれるのではないかと書いている。

当時の若者といえば、今はかなりの年齢になっているが、この作品は現代人になじみやすいのではないかと思う。むしろこの時代にこのような作品があったことに驚きだし、先進性のある作品だったと思わせる。

先入観なく読んだ私からすると、いつの時代もこういう人間はいるというのがわかるし、実在する特定の政党、組織、及びそれに属する人を揶揄したものではないとわかる。たぶん、現代人が読めば、多くの人がそう思うのではないだろうか。

Qが凡庸な人間にすぎないことをあらわにする対象が、感化院の人間である。彼らは容姿も思想も異端な存在である。そこにホラーの要素もある。文体からその姿の想像をかきたてられるが、数々のファンタジー作品に触れる機会がある現代人の方が、脳内で彼らを具現化しやすいであろう。むしろ、当時の読者たちは、どの程度具現化できたのだろうかと思う。

Qが彼らと言論を交わす場面があるが、姿同様、異端すぎる思想を前に、Qの思想は凡庸なものとして蹴散らさせてしまう。そしてQは混乱したり落ち込んだりするが、そのように中二病Qが打ちのめされる描写がまた楽しい。やっぱり、これは娯楽作品だと思える。

最後は、Qの行動は空回りしたにもかかわらず、結果は彼が望んだものと近いことになってしまう。これも物事は起こるべくして起き予測できず、人間の崇高な思想など無に等しいかのようで、皮肉が効いていておかしいのだ。

今読んでも表現に古くささは感じず、ミステリー、ホラーの要素もあるから、今の技術で映画で映像化したら結構おもしろい作品になるのではないかと思う。